晴天の霹靂

びっくりしました

桜の木の下には時間が埋まっている

ベランダから見下ろす隣家の庭では、この週末ようやく冬囲いを外した。

毎年見事な花を咲かせる立派な桜の木を中心としたささやかな庭であり、我が家では一切の手入れの手間をかけずに眺めだけ楽しませてもらっているありがたい場所だ。

 

ずいぶん雪の多い冬だったので、木が折れてしまったのではないかと心配していたものだが、今日の様子ではどうやら無傷らしい。

まだ風の冷たい中、一家で防寒着を来て出てきて、畳んで脇に寄せてあったベンチとテーブルからブルーシートを外し、いつものように桜のまわりぐるりを取り囲むように設置していた。

花のもっとも見事な週末に、家族と、子供らの友人も呼んで花を見ながらそこで焼肉をするためだ。

そして私はベランダでコーヒーを飲みながら、肉の焼ける匂いと満開の桜と、仲の良い家族を見下ろすのが春の行事である。

 

上から見おろす、というのは不思議と少しばかり神の視点に近いものだ。

毎年、同じ桜同じ家族、同じ焼肉を見ていると、桜の下で恒例の花見をしてるあの家族にとってその「いつも」が本人たちが思ってるほど長く続かないことが、よくわかる。

子どもは大きくなっていき、家族は歳を取っていく、それは当事者が思っているよりもずっとすぐなのに、それでも彼らは「なんとなくほぼ永遠」と感じながら桜の下で肉を食べるのだ。

実際、平らなところに暮らす人間にとっては「去年もこうで、今年もこうで、来年もたぶんこう」という状態のことを、「ほぼ永遠」という。

それを上からみている私だけが、終わることのわかっている芝居を見るようにちょっと切ない想いを払拭しきれない。

 

今年の我が家はベランダにベンチを設置したから、本格的にあの家族の花見にリモート参加するつもりだ。

ベランダの警戒監視が好きな黒猫と一緒に、一番良い春の週末のコーヒータイムをそこで座って過ごそうと購入した。

 

そして隣に建っている、うちよりさらに高層のマンションからはそんな我が家のベランダ模様が見下ろせるはずである。

人ひとりと猫が一匹、まるで春のこの瞬間が永遠であるかのような錯覚の中にのんきに座ってよその桜でコーヒーを飲む風景。

そんな永遠への思い込みにまるでおせっかいな神のように、高いところに住む誰かがソワソワするのかもしれない。

いかにこの桜のある眺めを気に入っていようとも、いつまでも同じ家に住むわけでもないだろうし、そもそも人より先に猫のほうが寿命が尽きる宿命でもある。

その瞬間はいつか壊れる瞬間なのだ。

そうであるのに何を暢気にその桜。

 

桜が咲くと、つい人は見る。

見る人ごとに、桜は必ず別々なのだ。

そのすべての桜が重なるところに、どうやらこの世の桜があるらしい。

それで何も問題ない。例年通り今年も咲く、この世の桜である。