晴天の霹靂

びっくりしました

老人とパン

冷凍庫からパンをひとつ取り出して、ラップのままレンジにいれる。

「ハイジの白パン」みたいな白くて丸をふたつつなげた形のやつだ。

パンが庫内をぐるぐる回っている間に冷蔵庫からバターを出す。

全部5グラムずつに切れる仕掛けのついたバターケースを、ずっと気に入って使っている。

 

先日フランス人の朝食風景の動画を見ていたら

「バターを冷蔵庫に入れるわけない。そんなことしたらパンに塗れなくなる」

という趣旨の発言をしており、うむやはり、と思ったものだ。

硬いバターを冷蔵庫から出す時、味噌や梅干しを冷蔵庫から出す時と同じくらいの戸惑いを感じる。

そもそもこれは冷蔵庫のない時代に長期保存すべく発達した加工食品なのではなかったか?

 

しかしそれでも、物心ついて以来ずっと冷蔵庫にしまってきたものを、いきなり常温に放置するまでの革命精神を抱くにもいたらず、首をかしげながらギミックつきのバターケースなどを買って喜んでいる。

だって日本の夏は暑いから、液状化するような季節にはバターの常温保存は無理だろう。

フランスも温暖化はしているだろうから、やがてはフランスの人も首をかしげながら冷蔵庫にバターをしまい、アイディア商品のバターケースに膝をうつようになるのか。

それとも、夏にはバターそのものを諦めるか。

 

白パンはごく小さいものなので、一分もレンジにかければ焼き立てのようにあっつあつになる。

ナイフで間に切れ目を入れ、バターをひとかけら挟むと、あっという間に贅沢な液体になって白い生地の中に染みた。

パンというのはどういうわけか、ごく小さな店とか、個人の上手な人が作ったもののほうが圧倒的に美味しいようだ。

発酵にかける時間とか、機械でこねるか手でこねるかの違いとか、ようするに「一番おいしくできる分量」がもともと比較的小規模なんだろうと思っている。

 

「娘に分ける、と言ったらこんなに渡された」

と父は言った。

なんでも、同級生がやっているパン教室があって、行ってきたんだそうである。

焼き立てのうちに届けようと、おそらくはその足で霊園(我々がしばしば使う待ち合わせ場所だ)にやってきた。

そのパン教室では

「男は俺ひとりなんだ」

と言った。

 

子供の頃、父が自分で飲む分のコーヒー(ネスカフェ)は自分で淹れるのを見て

「うちの父はたいへんにリベラルな人である」

と思っていたものだ。

よその父親というものはきっと、飲み物は家族に淹れさせているに違いない。

80年代、我が家で想像しうる「男のする家事」の上限が「自分のコーヒーを自分で淹れる」だったのだ。

お茶の間にフェミニズムを届けた田嶋陽子が、ヒステリー女の演出で面白い見世物としてテレビ放送され続けるようになる、少し前くらいの話である。

 

あれから、長い時が経ったものだ。

娘はほかほかといい匂いのする焼き立てパンがたくさん入った箱を抱えて思う。

きっと色々、きっと色々たくさん思うことがあっただろう。

男ひとりで同級生のやっているパン教室にいき、ハイジの白パンやらコロッケパンやらクリームパンやらを作っておしゃべりして帰ってくるようになるまでの間には。

 

「手捏ねはやっぱり弾力が違うな。大変美味しい。ごちそうさまでした」

こんな言い方もナンだが、褒められたくて寒空の下をイソイソと持ってきてくれたかと思うといきおい、こちらも味を損なわないように急いで一つずつラップして冷凍し、翌朝食べてすぐに感想をメールすることになる。

白パンにそえて人参のサラダと、この冬圧倒的にハマっているレンジで温めたりんごを食べていると、やがてiPhoneの通知が小さく鳴った。

「了解」

 

父よ、それはともかくLINEのコミュニケーションがどうも変だ。