晴天の霹靂

びっくりしました

電子書籍と栞の思い出

Kindleを手に入れてからめっきり本は電子書籍で買うようになってしまって、

なんなら電子版で出版されていないものは買い控えたりもする。

この自分の罪深い行いのせいで、ジェフ・ベゾスが一生かかっても使い切れないお金を毎年稼ぐ一方、街の本屋が消えていくのか、とは思うのだ。

それでもしばしばあるセールによって本屋さんでは絶対に買えない高価な本が手の届く値段になったりするおかげで、読書の幅も量も劇的に増えたのは否定しようもない(そうして読んだ本によってジェフ・べゾフの税率は彼の秘書より低いなどと教えられたりして改めて頭を抱えることである)

 

電子書籍のかげでそっと忘れ去られていくものがある。

近頃めっきり「栞」について悩んでいない。

 

元来が雑な人間なので本のカバーなんかをぴらっとめくって読みかけのところに挟む事が多かったのだけど、そうするとカバーの折返しがだんだん曖昧な感じになっていったものだ。

そんな様子を見るにつけ、ちょっと罪悪感を感じるが、不精なのでやめない。

最初は表側の見返し部分を挟んでいるが、読書が後半になると、今度は後ろの見返しを挟むようになり、最終的にカバーは両ウィングがあやふやな感じに仕上がる。

それどころか、本音のところは開いた本をそのまま伏せて置くことも厭わないようなお育ちだ。

これは後に愛書家の友人に「本が痛むでしょうがあっ!」と理不尽にも叱られることになる。

無論、私の本なので怒られる筋合いは全然なかったのだけど、本を大事にする人をむやみに偉いと思ってしまうほど、こちらも原理主義的なところがあったのでびっくりしてそれなりやめた。

ずいぶんと素直だったものだ。

 

単行本についている紐の栞は大変便利なのだが、あまりにもひかえめなので、存在じたいを忘れてしまい、むしろそこらへんの紙切れを適当にはさんでしまいがちだ。

ゆえに私の本にはよくレシートが入っていた。

本を読み返していて、変なレシートが出てくるのは読書の楽しみのひとつでもある。

 

「挟むもの」の中で思い出せる限りで最低の所業は、「周りに何もないのでティッシュペーパーを一枚取って挟む」というものだ。

挟んでいるときも微妙な気持ちになるし、読書を再開したときも、そのプレスされたティッシュをどう扱っていいのかわからない。

片手に持ったまま読み続けて、本を置くときにもう一度そのティッシュを挟んだりする。人の行いとしてはかなり最低だ。

 

古本を買っても、たまにおかしなものが栞代わりに入っていることがある。

何かのリーフレット、メモ書き、ちょっとした手紙。

洒落た栞が入っていたときは嬉しい。

古いヘンリー・ジェイムズの文庫本から四つ葉のクローバーが出てきたときには、名も知らぬ海を漂ってきたボトルメールを拾ったくらい感動したものだ。

公園でジェイムズを読んでいて、さて帰ろうと思ったら足元に四つ葉のクローバーが生えていたから栞にして連れ帰ったのだろうか。

きっと一瞬の感情のひらめきを大切にしたい気持ちになる読書だったんだろう。

 

「そうか、最近栞について微妙な気持ちになってないな」

Kindleの電源を入れながらふっと思ったのだ。

 

 

 

いつの間にか画面も傷だらけだなあ、と思っていたら5年も使っている。色々思うところはあるが、もう電子書籍のない生活には戻れない。