これまで生きてきた中でほぼ意識にのぼったことがなかったけれど、生活に入り込んできた瞬間からのQOLの上昇に驚いて、これまでの人生をちょっと反省する。
そういうものが、日々の暮らしの中には時々出現する。
あんまり地味すぎてそのうち便利であることさえ忘れるので厳かに書き記しておこうと思う。
50センチの竹定規を買ったのだ。
50センチの竹定規って、ある家にはなんとなく半永久的にあると思うし、ない家には「わざわざ買いに行く」という意識を持たれないままなんとなくないのではないかと思う。
我が家は、「ない方の家」だった。
長い定規があれば便利だ、くらいのことはもちろん知っているが、だからと言って、味噌とほうれん草と豚の細切れを買ったついでに
「そうだ、50センチの竹定規も買ってかえろう」
と思う日は永久に来ない。
だから、なんとなく、いつまで経っても我が家には50センチの竹定規がない。
事態が動いたのはある日私がチャコペンシルを買いに手芸屋さんに行ったときだ。
チャコペンシルを買う、というのも家庭科の授業以来のことであるようにも思うが、近頃私は細々と衣類を直す機会が増えている。
理由は自分でもよくわからず、もしかしたらユニクロ的なファストファッションがひと頃より品質が良くなって全体の寿命が伸び、手入れさえすれば結構いつまででも着られるようになってきているのかもしれない。
「どう考えてもまだ捨てるのはもったいないな」
と思うものが増えるにつれて、繕ったり、袖をつめたり、丈を直したり、めっきり手を加える機会が増えた。
「こういう生活をしている以上は、やはり長い竹定規ではないか」
と、ふと手芸屋さんで目を止めたのだ。
見ると500円程度ではないか。
こんなに安いとは知らなかった。
それに昔は、学校の授業で使った30センチ定規でさえもっと長かったような気がするが、今手芸屋さんで見る50センチは、なんだかえらく心細い。
「令和になって定規も短くなってきているのか?」
などと語義矛盾を物ともしない郷愁に駆られて買って帰る。
ここだけの話、実は浜崎あゆみと同じ年なのだが、50センチの定規を持つと一応チャンバラの構えで道を歩いてしまうものである。
なぜ人は長い棒が好きなのか。
そうして我が家はその日から「50センチの竹定規のない家」から「50センチの竹定規のある家」へと変化を遂げた。
なんだか知らないが、実際よく使う。
繕い物をするときに使うのみならず、「具体的に何に使ってるの」と聞かれても困るくらいの日常の細々したことに頻繁に出番がある。
押入れの天袋にある猫部屋のカーペットがまくれたときにちょいちょいと直すとか。
ダンボールを切って台所の引き出しの下に敷く下敷きを作るのに線を引くとか。
いずれも竹定規がなくてもできる作業であるが、竹定規があることで劇的に楽だし、物事をちゃんとやってる感がある。
そして長いわりに全然邪魔にもならない。
こんなに安くて汎用性高く使えて便利なものを、なぜ今の今まで買おうという気をおこさずに来てしまったのか、考えれば大変不思議なことだ。
長い定規は人類の英知だから、どこのご家庭にも置いといたほうがいい。