『怖い俳句』という本が好きで、時々読んでいる。
ひとつひとつ完結して短いし、どれから読んでもいいから、ぱっと開いて適当に「刺さる」一句を拾い出して
「いったいこれはどういうことだ」
と悶々として楽しむのにうってつけの句集なのだ。
中でも印象の強い句のひとつに
首吊りの木に子がのぼる子がのぼる 高岡修
というものがある。
思い出すたびに「どういう状況なんだよっ!」と声が出る。
「首吊りの木」というのは、心象なのか、伝説なのか、願望なのか、形状なのか。
「子がのぼる」の反復は、数なのか、時間の継続なのか、幻覚なのか、幻聴なのか。
状況を想像するだけで、その時々でひとつ怪談ができてしまうような妙にぬめっとした手触りがする。
ところが、突然、見つけてしまったのだ。
こんな句のことなど忘れてただぼんやり歩いているときに。
通り過ぎてから「今なにか目の端に写った風景が不自然だったような気がする」
と思って、振り向いたら、それがまさに、子がのぼる木だった。
「うん、のぼってるな。どう見ても、これは次から次へとのぼってるな」
あんまり突然なので立ち尽くしてしまった。
高岡修さんという人がいったいいつどこで何を見て、それほどの根源的な恐怖を感じたのかは知らない。
しかし、その知らぬ人にとっての一瞬が17文字に乗って時空を超え、無心で歩いていた私の網膜をしていきなりこの苦悶する木と激突せしめるとは、実にあざやかな感染力ではあるまいか。
そうか、この木だったか。
この木のことが、いったいどうしてうちにあるあの黄色い本の中に書いてあったんだろう。
まるで枝ぶりが人を誘うのを拒むように、断固として短く刈り込んであることも、気にしはじめれば妙に見えてくる。
本来ならもっと不気味に感じてもいいようでもあるけれど、
「知らない人の気持ちが突然脈絡なしに自分に伝わってきた奇跡の瞬間」を体現するようで、ちょっと神秘的に美しくも見えた、思いがけない怪談の木であった。