結構前に読んだ俳句の本です。
調べたら2017年に買ってました。
その時何を思って買ったのだったかまったく思い出せないのですが、読んでいて一番印象が強かったのが、俳句の表現方法の「二物配合」っていう話です。
言いたいことがあって、それにたいして近すぎず、しかしまったく無関係でもないものをもう一個もってきて並べる。荒波や佐渡に横たふ天の川。
ははーん、と思ったものです。
これはようするにエッセイの書き方と同じなんじゃないのか、と。
描写したい瞬間なり感情なりがあった時に、そのまま小学生の作文みたいに時系列で全部並べるってわけにもいかないから、じゃあ何かひっかける釘みたいなものを探す。
最初に手頃そうな釘を打って、そこから着地点にどうやってもっていくか、という道のりがいわゆるエッセイってやつなんじゃないか。
その釘が絶妙な「つかず離れず」みたいな位置に打てると書くのも読むのも気持ちがいいというのが、エッセイの一般的な方法のひとつではないかと思っているんです。
この「二物配合」って、発想はそれと同じように見えるな。
そう思ったことだけ覚えている、あれは三年前。
年月巡って2020年、飼ってた猫が一匹減って、図らずも花を買う習慣がつきました。
ただ眺めているだけではあんまり頼りないからせめて名前を知ろうと図鑑を購入。
名前を調べていると、花には季節があるということに気付きます。
名前を知るまでそのことに気付かないってのも逆に衝撃ですが、世界がデータベースで構成されてる『マトリックス』感にビビッとしました。
スーパーで買う花にだってちょっと注意向ければ季節くらいあるよね、そりゃ。
せっかく知った花の名も使わないとただ忘れていっちゃうから、これはとにかくなんとか使って行った方が得なんじゃないか。
しかも今うまい具合に心理状態がちょっと極端になっているので
「ああこの花かわいいなあ」
と思う気持ちがあますところなく
「やっぱりうちの猫かわいかったなあ」
という回路に全接続されているため、あらかじめ二物配合されてる感があります。
飾ってある花に対する気持ちの開き方がちょっと日常じゃないというべきか。
その感情の極端な状態がいいのか悪いのかついては甚だ怪しいものの、季語っぽい対象が身近にあってそれについて言いたいことに不自由しないなら、それをアナグラムみたいに言葉をバラしたり組んだりする作業はいかにも楽しそうです。
というような経緯で、最近やけに17文字で花の名前の備忘録を作っているのでした。臆面もなく。
ヒペリカムってミニチュアの桃みたいに可愛らしいのに和名が本当に「小坊主弟切」なんですよね。
図鑑ってそういう衝撃的なことをしれっと書いてあるのが面白い読み物でもある。