子どものころ飲んでいた麦茶は、今思えばおいしかったのだ。
いちいち、丸い麦の粒をやかんで煮出して、冷やしたものだ。
わたしが子どもだった80年代でもすでに、だんだん水出し用のティーパックが主流になってきていたのだろう、うちの麦茶はおいしいというので、年子の兄のサッカー友達なんかがわらわらとやってきてサバンナの野生動物くらいの勢いでがぶ飲みしてはまた遊びに行ったりしていた。
夏の台所ではお湯を沸かすという作業が一番つらい、ということに温暖化が進んでいる昨今富に気付くようになった。
自分ちの子どもふたりぶんと、あとは名前を知ってたり知らなかったりする傍若無人な少年たちの不定期の襲来に備えて麦茶を絶やさないのはどれだけ厄介ごとだったろうか。
もう、水道局に特別料金払ってもいいから蛇口から直接麦茶を出してもらえないものか、くらいのことを本気で考えていたとしても不思議はない。
あの頃の麦茶の味をもういっぺん確かめてみたいな、などとふと思ったりするが、もう麦茶用の焙煎麦の粒は置いていないスーパーの方が多い。
おそらくは日本中の家庭で一致して、夏のやりたくない家事首位の座を占め続けた結果淘汰が起こったのだろうと思うと、80年代の気が利かなかった子ども代表としてしみじみとお詫びしたい気持ちになる。
せめて去年までの水出しより少しでも味をよくしようと思って、麦茶用ポットをこれまでのアクリル製から耐熱ガラス製にかえた。
麦茶パックを入れて電気ケトルで沸かしたお湯を注ぎ、粗熱が取れたらティーパックは取り出して冷蔵庫で冷やす。
思ったほど劇的な味の変化はなかったけれど、水出しに戻すと「水っぽいな」とは思うので、やっぱり香りは心持ち濃く出ているようだ。
あとはティーパックの量やら、取り出すタイミングなんかをいろいろ研究しながら過ごすひと夏になる予定である。
もうあんなに理由もなく動き回り続ける子どもの味覚ではないのだから、そもそも同じ味は味わえないのだろうけども、それでもあの麦茶を飲んだら親しみ深い何かの記憶がよみがえってきそうな気がして好奇心がある。
ガラス製のポットは扱いにくいかと思ったけど、軽いし我が家の小さい冷蔵庫のドアポケットにも入るし、ミネラルなどが付着してしまうアクリルより衛生的には管理しやすそうだし、なかなか気に入った。