寺山修司の『さらば箱舟』を見た。
ガルシア=マルケスの『百年の孤独』からの翻案だが、誰にも許可を取らずに勝手に作ったのでタイトルが全然違うのだという話も見かけたりして、のどかな時代があったもんだととりあえず感心することだ。
観ればまあ知ってる人なら間違いなく『百年の孤独』を連想はするであろうが、小説中にぎっちり詰め込まれている印象的なエピソードの中から好きなパーツを取り出して寺山修司がもともと持っているストーリーのために再構築している感じがするものであって、
という印象だった。
そもそも寺山修司たるもの、見るもにせよ、読むものにせよ
「なんか人を煙に巻いて威圧してやろうと思ってるんでしょっ?」
という警戒心ばかり先に立ってどうにも中身が頭に入ってこない。
わりと苦手なのだ。
その中では『さらば箱舟』は、比較的好感をもった作品だ。
ガルシアマルケスの作品中では「マコンド」という架空の村の起源から消滅までの百年間の話であり、その一代目がアルカディオとウルスラという夫婦である。
ふたりはいとこ同士で結婚をしたために、「豚のしっぽを持ったこどもが生まれてくる」と言われる。
ウルスラはそれを避けるべく夜になると貞操帯を身に着けて寝る処女妻である。
ある日アルカディオはいまだに童貞であることをからかわれたことにカッとなって村人を殺してしまう。
その因習を逃れるために村を出てさすらい、新天地を見つけてすみついたのがマコンドの起こりなのだ。
寺山修司では舞台を沖縄に移している。
そして童貞夫を演じるのが若き山崎努である。
無口で屈強な体躯で、内にはに鬱屈と欲求不満を抱える山崎努が、ある日自分の性生活をしつこくからかう本家の跡取りについに切れる。
腰に差した短刀を抜き、それは綺麗なフォームで走ってくる狂気の山崎努。
真正面に固定でがっちりそれをとらえるカメラ。
脳裏で瞬時に流れるのは1977年の映画『八つ墓村』で、舞い散る夜桜の中を頭に懐中電灯を差し武装した山崎努が一点に目を据えてまっすぐに走ってくるシーンである。
背後には芥川也寸志の緊迫した鼓動のようなBGM。
何回見ても、震えるほどかっこよく恐ろしいのである。
「やっぱ山崎努は人を殺しに走っていくときが一番輝いてるんだな!」
と膝を打つ。
だって、明らかにそういう撮り方なんである。
『八つ墓村』といい、『さらば箱舟』といい、怒涛の勢いで迫ってくる狂気の山崎努の面構えをド正面から見たい、という監督の欲望しか感じない。
『さらば箱舟』について言えば、距離感を狂わせてまでのことである。
山崎努と相手の距離は、どう考えても数歩しかないはずなのだ。
それが短刀を抜いたとたんになぞの亜空間が展開し、鬼の形相の山崎努がたっぷり全力で走る距離が生まれている。
もうこの際、山崎努が人を殺しに行くために二時間走り続けるロードムービーであってもいいんじゃないか、と思うくらいの偏愛。
殺しに行く山崎努とガルシアマルケスの魔術的なエピソードが好きであれば、寺山修司が苦手であっても意外に観れてしまうご褒美映画だった。
こんな人が正面から走ってきたらとりあえず初手であきらめて鑑賞に回る。