晴天の霹靂

びっくりしました

『フランケンシュタイン』~語り手のIQがどんどん高くなるマトリョーシカ構造の快楽

メアリー・シェリーのゴシックホラーの古典『フランケンシュタイン』を読んでいます。 

フランケンシュタイン (新潮文庫)

フランケンシュタイン (新潮文庫)

 

 フランケンシュタインというのは

「首になにやらボルトとかついてる例の大男の名前ではなくて、あの生き物を作った科学者の名前なんだよ」

というところから始まって世界でもっとも誤解されてる文学の一つなんだろうと思いますが、まあ何度読んでも怪物の孤独が胸に迫る感動的な話でもあります。

また社会から疎外されたと感じた孤独な人が建物に火を放つ、なんていう報道を見るとつい頭をよぎる、とても鮮明な絵画的イメージを持った小説でもあります。

 

そんなことを考えつつ読み直したらすごいことに気が付いたじゃありませんか。

なんと前半の半分くらいが意外に退屈だったんです。

「あれ、こんなんだっけ、うーん」

などと思いながら読みすすめていったら後半の怪物が語りだすところでいきなり、

もうページをめくる手が止まらないくらい面白くなる。

 

しかも興味深いことには、まえがきによると書かれた当初はこの「面白い部分」だけの短いストーリーだったということです。

それを、筆者が後に何度も手を入れて

「うーむ、これは今何の話なのかなあ」

と読者を迷子にさせるような、知らない人の手紙やら、鼻持ちならない金持ちの少年時代の自慢話やらを延々と読まされる長い作品になったらしい。

 

このある種の「つまらなさ」がわざだということになってくると、ここで俄然、読むほうとしても面白いのです。

「あれ?おや?」

と思いながら読むと、この小説を構成している語り手三人が、三人ともなんかおかしい。

 

冒頭に出てくる、北極探検にでかけようとしてペテルブルグからお姉ちゃんに手紙をだしてる能天気な冒険家の若者も、なんか軽すぎて、悪い人じゃなさそうだが、安心して小説の語りをけん引してもらうには、いささか心もとない。

次に出てくる「おれは世界中の不幸を全部背負っている」というのを徹頭徹尾正面に押し出してくるフランケンシュタイン博士は、冒頭の冒険家青年に比べるとだいぶIQ高そうで語りは達者だけど、弁舌爽やかに言い訳ばかりしてる。

何の話をしていても

「ま、この人もつらかったとおもうけど、俺が一番つらかったんだよね」

というところにばかり結論を持っていこうとする自己顕示欲が見え見えなだけに能天気冒険家より始末が悪そうではある。

 

そうなってくると、最後に出てくる怪物の、あれほど知性と教養に満ちた生い立ちの語りについても違った側面を考えずにはいられない。

あの孤独と絶望とか、見た目に対する偏見との闘いとか、愛を求める気持ちとか、そういうものに嘘が入ってるとは感じないものの、あまりにも胸に迫りすぎるだけに、かえってちょっと立ち止まったほうがいいような気持ちにもなる。

「この共感せざるを得ない孤独の痛みは本当だったとして、さて、あの信頼できない語り手ふたりの手を経てやっとここに著された話を、素朴に信じていいものだかろうか。それぞれの語り手がそれぞれに都合の良いように解釈を加えながら語られた話であるとしたら?」

そうやって、ちょっと疑念を持ちつつ読むと、いっぺんに全部が違ってみえてくる。

 

フランケンシュタイン博士は美しい母親に対して醜形コンプレックスみたいなものを持ってるようにみえるけど、それがそのまま具現化されたのが怪物だとすると?

とか。

幼馴染のエリザベスと結婚するように勧められたとたんに、新婚の床から逃げ出すようにして外国へ行って「(生殖よらない)新しい生命の創造」の研究に没頭するわけだけど、それって性嫌悪のようにも見えるよな。

とか。

 

考えていくと、「書いてない部分」に、猛烈にたくさんのストーリーの余地があるのです。

「こうも読める」「こうも読める」というのがほぼ無限のようにある余白の多さ、というのは、当時19歳だった作者のメアリー・シェリー自身が、若い女性として言えないことの多い人生だったということなのかもしれず、そうなるとその余白はぜひとも読み取りたい余白でもある。

 

そんなわけでめちゃめちゃおもしろいけど、冒頭部分を読むのが大変な人は第二巻のドラマティックなところから読んでがっつり夢中になってから、あらためて第一巻に戻って、眉に唾つけながら読み返すのがおいしくいただける読み方なのかもしれないな、と思うのでした。

 

これとの合わせ読みが本当に堪らない読書の快楽。