なんでかって、こないだバルザックの『ゴリオ爺さん』を読んでたら
「これ、どっかで読んだことあるんだよなあ」
という気分に次第になってきて、よく考えたら漱石だったのだ。
田舎の(童貞の)青年が都会に出てくる。
出てきたところで、まず女性が綺麗なことに鼻っ柱をくじかれる。
そうして田舎で育んだ世界観はもう時代遅れで通用しないらしいと知る。
時代遅れは分ったが、出てきた先の都会でも新たに価値観が出来上がってるわけでもなく、みんながてんでに寂しく右往左往しているだけだということに気付く。
あれ、ここまで登ってきた梯子はもうはずされちゃって戻れない訳だけど、いくら目をこらしてもこの先に足を進めるべき梯子が掛ってる様子もまったくない。
「えーーっ?」
と、虚空の都市に向かって呆然とするところで小説が終わる。
同じ話だ。
『三四郎』の中にはイギリスの戯曲の中にあるセリフ「Pity' s akin to love」というのをみんなで翻訳してみて遊ぶシーンがある。
ひょうきん者の与次郎が「かわいそうだたほれたってことよ」と訳してその場のみんなは賛否両論やんやとなる。
一体何のシーンよっ、と思っていたものだったが今回読みかえしてだいぶ面白かった。
明治の日本で英語を習得し、英語の本に親しみ、西洋の概念をたくさん輸入したまではいいが、
「ところでさ、お前LOVEってどういうもんかわかる?」「いやあ、どういうもんですかねえ」
と頼りない気持ちになってるインテリ階級の困惑だと思うと初々しい。
LOVEとはなんだ。
今はとりあえず考え込まずに「愛」という日本語を当てはめることになっているが、じゃあその「愛」とはなんだ、となると、とたんに与次郎くらい頼りなくはなる。
私の世代といえば『東京ラブストーリー』赤名リカの「カーンチ、FAXしよ」のインパクトがあった。
あれだってようするに、都市の、自立を目指す世代の、綺麗な街に綺麗な人たちがいてLOVEを模索する話であり、平成のたくさんの美禰子たちの心に響いたには違いないが、振り返るとやっぱり翻訳としてはずいぶん色々不足が多いような気がする。
話を戻して、明治時代に教養で三四郎をビビらせた東京の女、美禰子である。
彼女はまだ誰も腹落ちしていない新たなる概念「LOVE」を共有させんがために、三四郎に金を貸して、それを返させない、という斬新な手段に打って出る。
曰く、「三四郎ー、借金しよ」である。
いくら明治だからってそんな愛の告白絶対通じない。
かくして美禰子にはタイムアップがやってきて、どこかの誰かが取り決めた「ほどほどに良さげな男」のところに嫁に行く。三四郎は熱を出す(可愛い)。
都市とは、綺麗な場所に綺麗な男女が居てみんなで頓珍漢なLOVEの翻訳をしあってるところであるのかもしれず、それを思えば寂しくもかわいい小説である。