晴天の霹靂

びっくりしました

『ゴリオ爺さん』~あまりの居たたまれなさに目が離せない

 『ゴリオ爺さん』を読んでいる理由は、いつまでたってもピケティの『21世紀の資本』が高くて買えないせいなのだ。

ゴリオ爺さん (古典新訳文庫)

ゴリオ爺さん (古典新訳文庫)

 

 

 2013年に邦訳出版された『21世紀の資本』がなぜ7年待っても6千円のままなのか。

2020年に至ってはもう映画化(!)さえされたのだから、そろそろ文庫化して上下巻3千円台くらいで買えるようになってもよかないか。 

 

などといじましく考えていたら「格差小説」としてたびたび引用されていると伝え聞く『ゴリオ爺さん』の方に興味が向いてきた。

21世紀の資本』が買えないなら『ゴリオ爺さん』を買えばいいじゃないの。

と、ピケテワネットが言ったとか言わないとか。

21世紀の資本

21世紀の資本

 

 

 

そんな不純な動機で読み始めても、純粋に小説として『ゴリオ爺さん』は面白い。

王政復古時代のフランス、斜陽の兆しはあるがまだ社会の重要な地位を占めている貴族階級と、産業革命によって勃興しつつあるブルジョアジーが跋扈する欲望と虚飾のパリの街。

その一角の、貧民窟のような下宿屋で起こる地べたを這いずり回るようなリアリズムのドラマである。

 

田舎の貧乏貴族で家族の期待を一身に背負って出世のためにパリに出てきた学生ラスティニャク。

製麺業でひと財産をなした大金持ちなのに、娘二人に分不相応に多額の持参金をつけて嫁がせてやったがために自身は最貧困層での隠居生活に甘んじているゴリオ爺さん

生き抜くのに必要なのは「良心」ではなく「野心」だとして、とにかくどんなことでもやって生き抜くマキャベリストのヴォートラン。

 

魅力的な悪人ヴォートランは田舎青年ラスティニャックに向かって

「勉強なんかしても一生貧乏から這い上がれないんだから、出世したければ金持ちの女の恋人になって社交界をのし上がっていくしかない」

という人生哲学を説くのだ。

ようするにこのヴォートラン哲学こそがピケティがあんなに言っていた

r>g (財産の成長率は、労働によって得られる賃金の成長率を上回る)」

ってヤツらしい。

労働が金持ちに追いつくことはなく、格差は開き続ける一方なのだ。ありがたいね。

 

 

ピケティは差し置き、読んでて困っちゃうのがゴリオ爺さんである。

普通にしてれば一生いい暮らしをしていられるだけの財を一代でなした人物ながら、娘の結婚ためにものすごい勢いで落ちぶれていき、貧民窟の有象無象にまでただ馬鹿にされている。

追い打ちをかけるように娘たちは社交界に不可欠な贅沢をするための金を無心し、父親を最後の最後まで身ぐるみ剥ぎ続ける。

そうやって落魄していくゴリオ爺さんを与しやすしとみて、からかい馬鹿にし続ける下宿人たち。

そういう「おとなしい人がどこまで我慢するかためすゲーム」みたいな風景に嫌悪感をもつ善良な田舎青年ラスティニャックの目線は誰の過去にも思い当たるものだろう。

 

うっかりしてるとなんとなく父性愛の自己犠牲物語のようにも読めるが、このゴリオ爺さんはどうにも一筋縄ではいかないのだ。

たとえば、自分に親切な田舎青年ラスティニャックと愛娘が結ばれたのを喜んでゴリオ爺さんが最後の年金を切り崩してまで新しい住居を手に入れてやるシーン。

三人で(!)初めて新居を見に行く夜である。

 

まるで 子供 の よう に はしゃぎ っぱなし の 夜 だっ た。 ゴリオ 爺さん は 誰 よりも 羽目 を 外し た。 娘 の 足元 に 寝そべり、 その 足 に キス を し たり、 延々と 娘 を 眺め て み たり、 娘 の ドレス に 顔 を こすり つけ たり し た。 ようするに きわめて 子供 っぽい 軟弱 な 恋人 が する よう な 愚か な 行動 を 取っ た。
バルザック. ゴリオ爺さん (光文社古典新訳文庫) (Kindle の位置No.4698-4701). 光文社. Kindle 版.

 

 たった今、父親の最後の血の一滴のような財産からプレゼントを搾り取った形になり、そのことに対しては正当に感謝している娘も、ゴリオ爺さんに好意的である恋人ラスティニャックも、ドン引きである。

だいぶゴリオ爺さんの肩を持ちながら読んでいた私も

「そりゃダメだ」

と半ば声が出える。

 

娘とはいえ、着飾った貴婦人である。

そして本当は貧乏とはいえ、どうにかこうにか社交界に出入りする格好は取り繕ってるりゅうとした美青年である。

その若い恋人たち二人の前で、ボロボロの身なりの汚いおじいさんが延々と足元に転がってキスしようとしたり、ドレスに顔をこすりつけようとしてたら、居たたまれなくて引いてしまうだろう。

なぜだ。なぜそういう立ち回りになる。

今こそ鷹揚にしてればいいだけのシーンなのに、なぜ自分から「トホホ感」を積極的に出しに行ってしまうのか。

 

ゴリオ爺さんは悲しくも決定的に滑稽なのである。

そしてその滑稽さの中には一定のエゴイズムが見え隠れもする。

ドン引きされていることに気付いていない、というよりも

「金を出したのだからこれくらいは当然の権利」

と思ってあえて嫌がることを我慢させてるような節さえ見受けれらる。

 

何のドキュメントで見たのだったか失念したが、「金」と聞くと実際人は生理的な興奮をしめすことは心理学実験で証明されているらしい。

どんな人でも「金」という単語が出るだけで心拍とか血圧とかに生理的な反応が出る。

バルザックに出てくる登場人物はその反応が誰と比べても過剰だというだけだ。

誰の中にも、「良心」と「野心」で板挟みになるうぶな心も、自分に不利なルールは踏み越えていこうとするマキャベリズムも、「金」で何か突飛なものを買おうとする常人には想像のつかないファンタスティックな下心も、あるだろう。

 

それにしても、とにかく滑稽で、トホホで、人をうんざりさせ、自己犠牲的で、物悲しくもあり、目も当てられなくて、しかし断罪するには大変に良心が痛むという、ゴリオ爺さんの妙ちきりんなキャラクターほど目が離せなくなるものも、なかなかない。

心は痛いが、扱いに困る。ゴリオ爺さん

ちなみに、よぼよぼの爺さんながら銀食器を素手で捏ねて銀の延べ棒を作る怪力の持ち主でもある。

何その謎のキャラ付け。いる?……いるけど。