晴天の霹靂

びっくりしました

『コロナ時代の僕ら』~忘れたくないものは案外忘れる

『コロナの時代の僕ら』を読んだ。

 イタリアの小説家パオロ・ジャルダーノがコロナウイルスによる感染者が爆発的に広がる中、2月から3月にかけて書いた短いエッセイをまとめた本である。

すごく面白い。

コロナの時代の僕ら

コロナの時代の僕ら

 

 物理学博士号を持っているジョルダーノは、数字に強い。

数字の問題である感染症に関しては、ほかの人よりも少しクリアに近未来が見えていて、最初から文章は簡潔で明瞭だ。

コロナウイルスが話題になりはじめた最初のころ、自分が誰よりも先に予防策を取り始めたら、人から嘲り笑われたことをちょっとした恨み節のように書いていたりなどもしていてユーモラスでもある。2月の事だ。

それが時が進むにつれ、事態が進行するにつれ、本当に深く傷ついて行く様子がわかる。

 

義憤、 遅れ、 無駄 な 議論、 よく 考え も せ ず に 付け た ハッシュ タグ ─ ─ その ひとつひとつ が、 約 一七日 後 に、 死者 を 生む 原因 と なっ た。
パオロ ジョルダーノ. コロナの時代の僕ら (Kindle の位置No.669-670). 株式会社 早川書房. Kindle 版.

 

とりわけ心に響くあとがきでは「忘れたくないものリスト」を作っておこう、と書いてある。
いい考えだと思う。
人はまさかと思うような重要なことを秒速で忘れる。
 
 
リストこそ作っていないが、この頃、私も言語化して覚えておかねばならないと思っていたことがあったのだ。
この一連のコロナショックがあって、カミュの『ペスト』を読み返して考えたことだ。

 

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック
 

 

当初は、まあ私は実直な医者のリウーにも、それを献身的に手伝う哲学的なタルーにもなりえないから、せめて脇目もふらず文学オタクであり続けた小役人のグランみたいであれたらいいな、なんて思っていた。
ところが、イタリアではジョルダーノがあんなに傷ついているこの頃、ユーラシア大陸の東の果ての島で私はちょっと気付いてしまっているのだ。
自分は、もしかすると誰よりもコタール的かもしれない。
 
コタールというのは、人生に絶望した状態で登場する密売業者だ。
よろしくない裏稼業を色々とやっており、とうとう後ろに手が回りそうだ、と怯えきっていたところにペストの大流行。
なんと、危機的な状況だった自分の人生ではなく、強固に思われた秩序の方が崩壊したのだ。
秩序が機能しなくなれば、もう善も悪もない。
コタールははじめて、丸腰になった世界と対等に渡り合う権利を得てペストとともに生き生きと暮らしはじめる。
 
一方のこちとらは小者とあって、褒められたことも大してやらない分、堂々と悪いことをして器用に立ち回るタマでもない。
それでも「なんとなく自分を仲間に入れてくれなかった堅牢な社会」がガラガラポンとなる事態は見てみたいという欲望はある。
 
もちろん、もちろん、それが単なる想像力の不足であることは指摘されるまでもなくわかっている。
家に引っ込んでいるときも、ライフラインが変わらず動き続けているのは何のおかげ。
緊急事態宣言下でも治安の悪化の心配をせず暮らせるのは何のおかげ。
いつも通り新鮮な食べ物が手に入るのは何のおかげ。
「社会」が守ってくれなくなった中で北斗の拳みたいにひとりで生きていく覚悟を持って言ってるのか、と問われればもちろんそんなことはない。
最初から安全を与えてくれる社会に生まれた特権的な人間の寝言だ。
それはよくわかっている。
 
でも、日々発表される「感染者数」の数字を見ると我ながらちょっと戸惑うのだ。
自分の中に、コタールがいる。
「これで、配牌のやりなおしがこないものかな」
と思っているコタールがいる。
そして、この社会には自分以外にもたくさんのコタールがいるだろうとも思っている。
 
もちろん、もちろん、それが単なる想像力の不足であることは指摘されるまでもなくわかっている。
どさくさに紛れて行われる配牌のやりなおしは、最初の時よりもっと悪くのはちょっと歴史を学べば分かるではないか。もちろん。
数字の後ろにある実在の人生を想像できないのは無知だからだ。もちろん。
それでも、私はまだコタールを黙らせることはできないでいる。
そして「コタール的なるもの」はウイルスと同じに、必ず平時の社会が醸成するものだ。
 
意識されていなかったコタールが表面化すること。
マスクもするし、手も洗うし、医療関係者にもドラッグストアにも配送業者にも感謝をするし、外出自粛もするし、リモートワーク対応もする。
だけど現時点で自分は明らかに善意の人でもワンチームでもオールジャパンでもなくて、ただコタールである。
 
絶対に忘れそうにないことがだが、都合が悪くなったらすぐ忘れるのは目に見えているので、これは「忘れたくないものリスト」にしておいた方がいいのではないか、と思ったのだ。
本当はひと目にふれないところにリストする方が正しいかもしれないけれど。
 
 
あとがきは今無料公開される。
ここだけでも読む価値が十分ある。