晴天の霹靂

びっくりしました

『聖なるズー』~倫理観とか正義感とか無知とか

 

 本屋さんでこの印象的な犬の表紙が平積みになってるのが近頃よく視界に入っていたのだけど、あまりにもタイトルから内容の想像がつかないので、意識にひっかかってきたことがなかった。

表紙とタイトルはなんとなく動物ファンタジーものに見えるのに、そうだとすると「開高健ノンフィクション賞」と書かれた帯とちぐはぐなのだ。

なにかの拍子に、文化人類学者が書いた動物性愛に関する本であることを知って、あまりの意外さに手に取ってみた。

そして読みだすともう最後まで止まらない。

聖なるズー

聖なるズー

 

 

動物を性的なパートナーとして愛する人たちがいる。

動物虐待を伴うことの多い「獣姦」と厳格に区別して、自分たちのことを「ズー(ズーフィリア)」と呼び、パートナーとの対等性を何よりも尊重する。

にわかには受け入れがたいセクシュアリティではあるが、考えるに、動物と親密な空間で暮らして、互いに強い絆で結ばれており、動物が性的な関係を求めてくるのを受け入れたいと思ったとき、応じてはいけない理由とはさて何なのか。

身近なはずなのに考えたことのないテーマだ。

 

この本を読み終わって、思い出したことがある。

昔、ペットとして飼っているメスの犬に指でマスターベーションの手伝いをしているという男性に会ったことがあるのだ。

私はそれを聞いてとっさに嫌悪を感じた。

その人が自分のペットの性で「遊んでいる」と感じ、倫理的に自分が正しいというゆるぎない確信をもって不快に思った。

 

ところがこの本のおかげで、その人について忘れかけていたもうひとつ別のことを、この件と結びつけて思い出したのだ。

彼は青年期にあった事故のせいで身体が不自由だったのだ。

思えば、性の介護ということについて少なくても私よりはるかに真実味をもって考えた経験があるはずではないか。

それなのに、自分とともに暮らす状況の中では叶えてやることのできない飼い犬の性的な欲求について考えた結果だった可能性もあるとは、私の頭にはついぞ浮かびもしなかったのだ。

 

実際のところ異性である私にたいして何の説明もなく冗談みたいな口調で唐突にそんな発言をしたことには、問題があったのではないかとは今でも思っている。

でもそれにたいしてほぼ条件反射で一方的な「倫理的な怒り」を感じたのは、単に私の無知だ。

そこには、本来ならもっと考えるに値するテーマがたくさんあったのだ。

 

自分の倫理観とか正義感とか、そういうものが無知から由来するものであるということを明らかにされる経験はショックではあるが、その後の人生にとって得難い経験だ。

そんなショックを与えてくれる、ざわつくノンフィクションだった。

 

 

聖なるズー

聖なるズー