晴天の霹靂

びっくりしました

『ペスト』~ところであなたはどこに付箋はりました?

2月末くらいからアルベール・カミュの『ペスト』が売れに売れている、という記事をあちこちでよく見かけます。

ddnavi.com

 

ご多聞にもれず、今年になってから読み返した身の上としては、自分以外の読者にはどんな風に読まれているのか興味があるところです。

 

正直なところあまり読みやすい小説とは言えないと思うのです。

感染症をめぐる基本的にはペシミスティックな群像劇で、しかも出てくるのがおじさんばかりだから、もう誰が誰だかまず名前を覚えきれない。

名前がおぼつかないおじさん同士で観念的な話とかはじめられてしまうと「あんた誰っ?今何の話っ?」ってならざるを得ない。

唯一絶対神という存在と縁の薄い風土で読んでる身の上にとっては「神なき世界で聖者たりうるか」というような話を当然みたいにはじめられても、「それ、そんなに気になる?」とか思っちゃう。

 

何回読んでもやっぱり全体としては把握しにくいなあと思ってはいるのですが、それでも好きな小説 ではあるんです。

ひとつにはカミュの視覚と聴覚がビンビンに優れた地の文がそもそも生理的に気持ちいいというのがあり、もうひとつには自分にわかるところだけ取り出して都合よく読ませてもらってるからなんでしょう。

 

もし、みんなそうやって、おのおの好きな、理解できたページに付箋をいっぱい貼りながら少しずつ読んでるのだとしたら、今どんな風に読まれてるのか、ちょっと興味あるなあ、と思うところです。

 

読書中に迷子になりやすい「おじさん群像劇」を老官吏グラン推しという一点で突破して読み切ることにした私にとっては今この本の中から一番に鳴り響いてくる音は

「ポエムとヒロイズムには気をつけろ」

ということです。

 

老官吏グランがどういう人かといえば、ヒロイズムからはもっとも遠い地味な役人のおじいさんです。

役場の仕事が終わったあとで家で(陳腐な)小説を書くことを趣味としています。

極めて目立たない人物である彼は封鎖されたオランの街で、有志で組織される保健隊に入り淡々と事務を引き受けることで先の見えない状況の中で仕事をし続ける人々の心のよりどころともなっていきます。

 

偶然ひとつの街に閉じ込められただけの市井の人たちの中に、そんなに哲学者ばかり揃わないだろう、っていうくらい医師リウー、旅行者タルー、新聞記者ランベールという三人のおじさんは不条理に直面させられた自分の生き方の問題で猛烈に侃々諤々します。

医者は「自分がしてるのは果てしなき敗北に抗い続けること」だといい、

死刑反対論の旅行者は「構造的暴力を理解し、加担しないこと」だといい、

スペイン内戦でのトラウマのある新聞記者は「理念ではなく愛のために生きること」だといい、

こんな調子だから観念的でわかりにくくなりがちなところにもってきて、グランだけはあまりしゃべらず、口を開いても自分の(申し訳ないけど滑稽な)小説の話か、だいぶ昔に出ていった妻への愛というわかりやすい話しかしないので大変に心が安らぎます。

 

グランだけがなぜそんなに大上段に構えた哲学議論なしに献身的な仕事ができるのかといえば、どうも彼が「オタク」であるからのように見えるのです。

自分の中に確固たる世界があるからこそ、人々がペストに閉じ込められ、ペストについてしか話すことがなくなっているときも、グランには常に内側に言葉があって、現実を見て平常心でいることができる。

どうやら、自分のために好きなことをやってる人は非常時に強いらしい。

 

そして危険は伴うけど、「事務」という凡そ賞賛されるシーンのないであろう仕事をわざわざ引き受けることに何の疑問も抱かないでいるのです。

 

そして リウー が 熱意を こめ て 礼 を いう と、 彼 は けげん な 顔 を し た ─ ─「 こんな こと は 一番 大変 な 仕事 って わけ じゃ あり ませ ん からね。 現に ペスト って もの が ある ん です から、 とにかく 防が なきゃ なり ませ ん、 これ は わかり きっ た こと です。 まったく、 なん でも これ くらい 簡単 だ と いい ん です がね」。

グラン、かっこいいでしょう?

 

一方で嬉しそうに医師リウーに語る、なかなか完成しない(珍妙な)小説に対する野望。

「私 の 望む ところ は です よ、 いい です か、 先生、 つまり 原稿 が 出版 屋 の ところ へ 行っ た 日 に です ね、 その 出版 屋 が それ を 読ん でから 立ち上っ て、 社員 たち に こう いう って こと な ん です ─ ─《 一同、 脱帽!》」

グラン、かわいいでしょう?

なぜペストに対してはあんなに現実的なのに、小説の話になると、かくもツッコミどころがわからないくらいおかしなことになってしまうのか。

素敵な情熱です。

 

 そうしてこの小説(手記)は、人々がヒーローというものをどうしても必要とするなら、それはほかならぬこのグランだろうと記しています。

  これ は 少なくとも、 外部 の 世界 が この ペスト に 襲わ れ た 町 に 届か せよ う と し て 来る 呼びかけ や 激励 を、 新聞 で 読ん だり、 ラジオ で 聞い たり し た さい の、 医師 リウー の 意見 で あっ た。 空路 および 陸路 から 送ら れ て 来る 救助 物資 と 同時に、 毎晩、 電波 に 乗っ て あるいは 新聞 紙上 で、 同情 的 な あるいは 賞賛 的 な 注釈 の 言葉 が、 あれ 以来 孤立 し て いる この 町 めがけ て とびかかっ て 来 た。 そして その たび ごと に、 叙事詩 調 の、 あるいは 受賞 演説 調 の 調子 が 医師 を いらいら さ せ た。 もちろん、 彼 は そういう 懇切 な 心遣い が 見せかけ では ない こと を 知っ て い た。 しかし、 それ は、 人々 が 自分 を 人類 に 結びつける もの を 表現 しよ う と 試みる 場合 の、 慣例 的 な 言葉 で 表現 さ れる より しかた が なかっ た。 そして そういう 言葉 は、 たとえば、 ペスト の さなか において グラン なる 人物 の 意味 する ところ など 理解 し え ない ため に、 グラン の 日々 の ささやか な 努力 に対して は 用い られ よう が なかっ た ので ある

 

ポエムとヒロイズムで旗を振ろうとしている人には気を付けろ、それは本質を見ていない。

私はそういう風に読んじゃう今日この頃です。

 

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック