晴天の霹靂

びっくりしました

『Fukusima50』~自己犠牲は感動シーンではなく恐怖シーンなのではないか

『Fukusima50』を見てきました。

邦画でこの規模の作品を作るともっとチープさが目につきがち、という印象だったのですが、思ったよりちゃんとしていて良かったです。

ただ米軍人が出てくるシーンになると、50年前の怪獣映画から演出方法があまり進化してない感が急に出るのは面白い現象ですね。

どうしてもああなってしまうのか。


映画『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)予告編

  

いろんな人がいろんな立場からいろんなことを考えるのであろうと思うのでちょっと迂闊な感想言いにくいなあと思いつつ、しゃべりたいこともたくさん出てくる映画でもあります。

なにより私は、「事実に基づいている」と表示を出しながらこれ自体はドキュメンタリーではないというバランスが微妙にモヤモヤする気持ちを抱きました。

 

全体としては、やっぱりリアルタイムであの原発事故の報道をみた記憶がまだ鮮明ですからどうしてもドキュメンタリー寄りの気持ちで見るのですが、そういうふうに見えれば見るほど、どうしてもあの出来事がヒロイズムの物語として回収されてしまうことに抵抗を感じます。

 

津波で電源が失われる、炉心冷却ができず原子炉の圧力が高まって爆発が危ぶまれる、誰かが放射線量の上がった建屋内にはいって手動でベント(蒸気放出)を行わなければならない。

生命の危機があるほど線量の上がった場所に作業しに行くために「決死隊」が組まれます。

そこで「俺が行きます」「俺も行きます」と言うような下りがあり、さらには「いやお前はダメだ」「お願いします、行かせてくださいっ!」みたいなシーンが繰り返し繰り返しあるのです。

 

たぶんあの時の現場は本当にそうで、私たちが名前も知らないたくさんの人が仕事に対する責任感から命を賭して日本を守ってくれたのであろうということは疑わないし、ありがたさとか申し訳なさとか色々もちろん感じました。

だけど基本的には場の混乱の中で自己犠牲の物語がわーっと盛り上がってしまうというのは非常に恐ろしいことであり、あの出来事全体像として振り返るのであれば、「あのような方法で人々を感情的にさせてはいけなかった場面」として以外は振り返りようがないのではないか、と思うのです。

もしあの場に居た中の誰かのヒロイズムの物語を描くのであれば、それは「事実に基づいた」という表示を離れ、吉田所長という実名を離れ、明確なフィクションの中でやるべきではなかったか。

 

私はもともとエモーショナルな演出に過敏で、エモければエモいほど「誰かが何かを隠す方向に感情を誘導している」という警戒心が湧くタイプなのでしょうが、自分のそういう面を非常に強く意識しながら鑑賞しました。

 

 とはいえ、いろんな立場の人がいろんな感想を抱くであろうことに精いっぱい配慮しながらぎりぎりのところでよくできた映画だったなと思いますし、テクニカルな用語を説明的になり過ぎないように入れていく工夫もよかったです。

佐藤浩市」「渡辺謙」という邦画二大面魂に過剰に頼り過ぎないように、でも本当に再現のしようがないところは二人の顔圧に頼って映画としての難所を乗り越えるやりくりも見てておもしろかったです。

 

あの時あそこで起こったことを自分は知らなさすぎるんじゃないか、と思っている私のような人は「どうせプロパガンダ映画でしょ」とか警戒してないで、普通に見に行って自分がどこに引っかかるのかということ込みで鑑賞すると非常に見ごたえあると思います。