ほんの少しのことでも「毎回意識する」というのはえらいもんで、今月は石鹸の減りがいつもより早いようである。
いつもよりはちょっと意識的に念入りに泡立てているという程度のことでも、石鹸にとってはなかなかの重労働なのだ。
あっと言う間にチビて割れてきた石鹸を手のひらにのせて、「さてこれをどうしたものかな」と思う。
石鹸が小さくなるたびに毎回考えるが、毎回うやむやにしてるので、毎回対処法がない。
一番安直なのは、小学校で蛇口につるしてあったみかんネットみたいなのにチビせっけんと新しいせっけんを入れていっしょくたにして使っていくことだ。
大人になってみれば、あれはもっとも手間もかからず無駄も出さない素晴らしい工夫だったとわかる。
しかし、小学校の「水飲み場」の風景を思い出すに、あれこそ若干怖かったのだ。
雑な子どもがひっきりなしに使うのだからせっけんは常にしめってぬるぬるしており、運悪くきちんとしまっていない水道などがあるとそこから滴る水滴にまみれて半分溶けてぐにゃぐにゃになっていたりもする。
そもそも、あの赤いネットはなんだったのか。
石鹸を入れる専用ネットとしてああいうものがあったのか、それとも、みかんネットの流用だったんだろうか。
記憶の中の赤い石鹸ネットをたぐっていくと思い出す歌がある。
「わったしーはせっけん あなったーのせっけん」
給食時間前の水飲み場で必ずかかっていた、腹の立つほど陽気な歌だ。
「あっなたのー手をみせてねっ きれな手を見せてねっ」
あの歌はなんだったのであろうか、とyoutubeで検索してみればその名もずばり「わたしはせっけん」という童謡だった。
なぜ石鹸を擬人化した。
もともと聞き取れていなかった歌詞を再確認し、なるほどこんな歌であったか、とは思ったものの、予想以上に懐かしくはない。
ああいうところで、衛生観念やらなにやら義務教育として教えてもらえるのはそりゃあ本当にありがたいことだったとは思うが、記憶の中ではなんだかちょっと怖かったんだよなあ。
ずらずらっと横に並んだ蛇口と、そこからぶら下がる赤いネット、湿った石鹸の列、タイル張りの床、強制的に朗らかな童謡。
こうやってなんとなく過去の記憶との折り合いが悪く、ついついチビた石鹸の使い方についてうまいこと思いつかないまま、カケラばかり溜まっていってしまうのだ。