晴天の霹靂

びっくりしました

『ピダハン--「言語本能」を超える文化と世界観』~稀に見るコーヒー本

朝は熱い緑茶を飲んで目を覚ますのが好きなのだけど、まだ寒い季節にはミルクたっぷりのカフェオレにするときがある。

身体も温まるし、目も覚める。

そういうときのカフェオレに合う本も、もちろんちゃんと用意してある。

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

 

 アマゾンの奥地に住む小さな部族ピダハンとともにおよそ30年を暮らしたアメリカ人宣教師の記録だ。

聖書のピダハン語訳というミッションを担う宣教師であると同時に言語学者、人類学者である著者のダニエルのこの報告は言語学の主流に真っ向から対立する論争を巻き起こしたのでそうである。

 たしかに、時制がなく、数がなく、接続詞がなく、間接話法もなく、再帰もない言語というのは、にわかには理解しがたい意外性があるし、チョムスキーとの大げんかも本当に噛み合ってるんだかなんだか理解が及ばなくってかえって面白い。

 

とはいえ、いかに貴重な資料であっても、私にはそこじゃない。

この本の素晴らしいところは、何よりもまず水のきれいなマイシ川のほとりで鮮やかな色のコンゴウインコが飛ぶ姿を見ながら飲むコーヒーなのだ。

外部との接触がほとんどなく、外部からの物資の流入もごく限られているピダハンの村では、アメリカ人のダニエルにとってさえもたまにやってくる補給用の飛行機によってもたらされる貴重な嗜好品がコーヒーである。

ピダハンに言葉を教えてほしい時などはコーヒーを持っていく。

「たっぷり砂糖を入れたコーヒーがあるんだ」

と言って会いに行くと機嫌よく接してくれるのだ。

 

この「たっぷり砂糖を入れた」のところが、またたまらない。

ジャングルの朝の気配、川の音、森と水と植物の匂い、特別なコーヒー。

ほとんど魚とブラジルナッツだけを食べて暮らしている彼らにとってコーヒーのカフェインがもたらす効果もまた特別だろう。

この世にあまた存在する本の中で、この本の中のコーヒーが一番美味である可能性について、私は考える。

 

油断してはいけないのは、ダニエルとピダハンがコーヒーを飲んでるところだけを拾い読みしても大して美味しくないことだ。

苦労してピダハン語を学び、人類学的に目をひく派手な儀式を持たないことにがっかりしたり、妻子をマラリアで失いかけてるときにピダハンが一切同情してくれないことに怒り心頭に達したり、酒に酔って一家皆殺しにされかけたり。

そんな全身全霊の神経をフル稼働する生活の中に、ふいに登場するコーヒーだからこそ、うまいのである。

自宅で座している私もダニエルの苦労のせめて片鱗は共有しなければならない。

そして、ふと訪れる待ちに待ったコーヒーブレイクに、ダニエルとピダハンはマイシ川のほとりで甘いコーヒーを、私は朝日の差し込む窓辺でミルクたっぷりのカフェオレを

「いやあ、おいしいよねえ」

とうなりつつ飲むのである。うまい。

 


Spoken Pirahã with subtitles

顔がちょっと日本人に似てるしとても楽しそうにしゃべるピダハン。