世界で絶賛大ブーイング中の映画『キャッツ』を見てきました。
やれ気持ち悪いだ、ポルノみたいだ、見た目が怖いだ、言われまくった挙句にラジー賞まで獲得したのを見るに及んで、そういう作品はやはりリアルタイムでちゃんと劇場で見ておかねば後々楽しめまい、と心に決め観に行ってきました。
すごいものを見る覚悟で行ったので、少々の悪夢感は全然平気、多いに楽しんで帰ってきました。
むしろ、やっぱ、『キャッツ』はいいな。
たしかに、色々変です。
セットと猫の縮尺が一向に安定しない感じのままあちこち場面を切り替えて振り回され、落ち着かないことこの上ない。
上半身はVFXで猛烈に猫っぽいのに下半身の構造は完全に人間だから、むやみに多用されているバストショットから引いて全身がうつるたびに毎回気まずい。
ゴキとかゴミとか、リアルに見たくもないものをいちいち鮮明に見せるのがブラックジョークなのか何かの混乱の結果なのかよくわからない。
見せ場の一つであるマジカル・ミスタ・ミストロフォリーズの歌が「何回もマジックに失敗する」という不要なドジっ子演出のためにブツ切りにされていて猛烈なストレスがたまる、などなど。
私もラジー賞を肴にポップコーンでも一杯やりたいな、と思うくらいツッコミたいところはたくさんありました。
でも『キャッツ』って、T.S.エリオットのすごくいい詩に、すごくいい曲がついてるんですよ。それを身体能力抜群の猫が踊りながら聞かせてくれるなんて、最高じゃないの。
そもそもあまり幸福な人生を送らなかった詩人が、ある月夜のごみ置き場で野良猫たちが集会してるのを見て
「猫は九生あるっていうから、次に天上へ行って新しい命が貰う猫を誰にするのか会議で決めてるんだろう。にゃーにゃー鳴いて自分の人生をプレゼンして、一番心に響いた猫に決めるんじゃないかなあ」
なんて思いついたんだろうとちょっと想像するのです。
「きっとあそこで年取ってボロボロになっている、一番悲しみの深い猫が、一番最初に癒しにたどりつけるんだろう」
なんてことを思いつつ、でも子どもむけに言葉遊びメインの楽しいナンセンス詩として書いたのかもしれない。そんなことを思うと、もうそれだけで『キャッツ』は十分いいんです。一生懸命作ってくれてさえいればどんな悪夢演出でも。
かくのごとく、かなり斜に構えて「ふふん、毛玉の悪夢だってわかって見に来てるんだからねっ、さてどの程度のものかやってみてごらんなさい」くらいのナメた視線で見に行ったにもかかわらず『メモリー』には、きっちり泣かされてしまったのはすごいものだな、と思いました。
映画的な流れとしては、ダメだったんです。『メモリー』を歌う老娼婦猫がそもそもどうして嫌われてるのか、とか、どんな風にのけ者にされてるのかとかがきちんと描写されないまま歌に突入してしまうから、カタルシスもなし。
役者も若すぎるからまったく哀れでもなく憔悴した感じもなく、なぜいきなりそんなに思い入れたっぷりに悲しい歌を歌い出しのか、流れにビビるくらいではあったんですが、それにしても圧巻の歌唱で全部強引に持っていく。
映画って、すごく「エモい」んだなあ、と思いました。
アップで、大音量でエモーショナルな歌を歌いあげると、流れを無視してまでも感情を全部持っていくことができてしまう。『キャッツ』自体は全然映画的なミュージカルとは思わないけれど、『メモリー』はものすごく映画向きの曲なのだ、と感じさせられました。
過剰にエモくなれてしまう、っていうのは、私はどちらかというと映画の弱点であるような気がするのではありますが、でも素晴らしかったことに関してはぐうの音も出ない。
人には全然すすめないけれど、私は普通以上に楽しんだあげくにパンフレットまで買っちゃったのでした。ラジー賞おめでとうっ!
The Oscars 2020 | James Corden and Rebel Wilson as ‘Cats’ | FOX