晴天の霹靂

びっくりしました

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』とオーティス君と

私が非常に好きなネットフリックスオリジナルドラマの一つ『セックスエデュケーション』、ちょっと目を離している隙にシーズン3の作成が決定しておりました。

たぶん配信は来年あたりではないかという気がするので、なんならそれまでにもう一周見ておこうかしら、という勢いです。

 


『セックス・エデュケーション』シーズン3 配信決定 - Netflix

 

非常にハマっているシリーズなのですが、実はちょっとおとぎ話みたいな見方をしていました。

猛烈な速度で進んでいく現代社会の変化を、丁寧に拾い上げそれをぎゅぎゅぎゅっと濃縮し、ひとつの学校の話として圧縮して見せている、だからこそのあのストーリー展開の早さだと思っていたのです。

 

あれ、どうやらそうでもないんじゃないか。これはほぼ濃縮なしで、この濃度のマルチカルチュラル化が2020年のこの世界で進行してるのではないか、と思い直したのは、まさにイギリスの中学生をとりまく状況を母親の視点から描いたエッセイを読んでからでした。 

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

 

日本人のお母さんと、アイリッシュのお父さんをもちイギリスで暮らす普通の中学生の日常を描いたエッセイです。人種差別、極端な格差社会などやっかいな問題が山積するスクールライフでは、ただ生きてるだけでドラマのようにいろんな事が起こります。本当にイギリスの中学生ってこんなに怒涛の勢いで日々を生きているのだとしたら、私としてもいろいろ考えなおさねばなりませんよ。

 

このエッセイの息子君にも、『セックス・エディケーション』の主人公オーティス君にも、何か共通した眩しさみたいなものを感じるのは、彼らは問題は常に起こるが、自分が正しい知識を手に入れ、自分で判断し、想像力を持って行動すれば解決できるはず、と少年らしいまっすぐさで信じていることです。

問題が目の前にあること自体を否定することなく力強く突き進んでいく様子は、大人たちもぜんぜん対応が追い付いていない教育の現場においても非常に朗らかな力を感じます。

 

また、このエッセイで知ったイギリスの教育について面白かったことがもうひとつ。幼児教育から行われるという演劇表現の授業です。

『セックスエデュケーション』のシーズン2は、演劇部が行う『ロミオとジュリエット』の上演が一つの山場であり、実際それは高校生の課外活動の発表会とはとても思えないクオリティで劇中劇として進行するのです。

「まあ、ここはドラマの見せ場として特別に派手にした演出なのだろう」と、思って見ていました。しかし、イギリスでは全員が幼児期から演劇の経験があるのだとすれば、多少予算を多めに出してくれる学校でありさえすればひょっとするとあれくらい斬新な解釈と演出で高校生がシェイクスピア劇を上演できてしまうということも、ありうるのかもしれない。

 

そんなことを思いながら読むとエッセイのほうも大変おもしろかったし、『セックスエディケーション』もリアリティラインをもっと高く見積もって見なおしてみるべきなのではないか、などということも思われ、相乗効果でまた面白い経験でした。