晴天の霹靂

びっくりしました

きっと君は世の中の怖さをしらなくて親をハラハラさせているのだ

大きなミズナラの木陰でカラスが鳴いている。

なんとなくむくっとしたまるっこいシルエットで、大きな口を開けて鳴くと鮮やかな腔内の赤が目立って見える。

「なんだか妙にひょうきんなカラスがいるな」

と思って目をやったら、そばにいたもう一匹のカラスが寄っていって、その大きく開いた口の中にすばやくくちばしを突っ込んだ。

ああ、子どもなんだ!

 

カラダの大きさは二羽ともさほど変わらないのだけど、片方にだけ何か甘えとか鈍くさみたいな雰囲気を感じ取ってしまうのは、巣立ちはじめの雛だからなのじゃないか、というふうに見てとれる。

木のある場所が好きな私は、どうしても生息域がかぶりがちなこともあって、子育ての季節はだいたい毎年カラスの襲撃を受けているが、雛らしきものを見たのは初めてだった。

飛ぶ練習でもするのだろうか、と思って足を止める。

 

子ガラスに並んで地べたに立っていた母ガラスは私が立ち止まったのを気に病んで、威嚇の声を出しながらぴょんぴょん、とこちらに向かってはねてきた。

大事な雛に何かされると思ってパニックを起こしているときの声の出し方でこそないが、それでも明らかに私に向かって強く訴えている。

「取り込み中なんでそっとしといてくれない?」

くらいの感じだ。

なんとなく、いつもより穏やかに話しかけられたので、こちらとしても丁寧に対応せざるを得ない。

「ああ、ごめんね。がんばって」

ご近所のカラスに対して仁義を守るのは大切なことなので、好奇心の方は諦めることにして、振り返ることもなく通りすぎる。

 

だけど本当は、カラスの子育てなんて滅多に見られないし、一番見たい姿なのではある。

例年通り私はびっくりするくらいあちこちの木の下で襲撃されたけど、そうこうするうちにカラスの方ではもうあんなに立派に育ったのか。良かったなあ。

ほんのちょっとだけ、カラスの子育てに参加させてもらえたみたいで、なんとなくうれしい一日。

ここらは結構キツネが多いから、気をつけたまえよ。

 

 

『1984年』~どのゴールに向かって誰が何をどうしたものやら

道を歩いていたら向こうからジョギングしてくる男性がいる。

きゅっと口を引き結んだ表情で走っているのがすれ違いざまうっすら印象に残った。

と、思ったら通り過ぎてから後ろでプハッと声がした。

すれ違った瞬間の映像を頭の中でリプレイすると、そうそう、その人は走っている途中で外したのであろうマスクを手に持っていた。

そして道の向こうから私が歩いてきたので気を使って、すれ違う瞬間、わざわざ呼気を止めていたのだろう。

だからあんなふうに口を一文字に結んでいたのだ。

と、今起こった現象と先程の映像の因果関係がすべて解けて

「いえいえ、いいんですよ。本当にすいません」

と思った。

ジョギング中にわざわざ呼吸ペースを乱すのはずいぶんダメージが大きかろう。

たぶん、すれ違った瞬間だけ息を止めても、エアロゾルやら何やらみたいな文脈ではほとんど意味はないのだろうし、万が一なにか感染するようなことがあるとしても、もうこの際、断じてあの人のせいではないじゃないか。

私も暑くて息苦しかったし、人の少ない道を黙って歩いていたからマスクを外していた。

たんなる「マスクしぐさ」だとしても、どうしてもマナー上どちらか息を止めてすれ違わなければならないなら、歩いている私が止めたほうが体への負担は全然楽なのだが、こっちは雑な性格だから全然気づかない。

「ああ、こうやって親切で気配りする人ほどいたずらに消耗していくのか……」

と思うと、ちょっといたたまれないものがある。

 

人類がコロナウィルスに打ち勝つまであと二週間程度だと思っていたら、どうも記憶違いで、人類の努力と英知によって難局を乗り越えていけることを発信するまでがあと二週間だったから、どうやらまだだいぶゴールが先だったのだ。

 

近頃しきりに思い出すジョージ・オーウェルの『1984年』のことを考えれば、10年くらい前にはじめて読んだときは「それほどピンとこないなあ」というくらいの感想だった。

たぶんそれだけ今よりも「確かな現実は存在する」というようなことを漠然と信じていたのだろうと思うと、ちょっと懐かしい。

あの頃はオルタナファクトなんて言葉もまだなかったし、情報改ざんのための省庁も、まったく別の地平で自主研究してる学者も、存在しなかったのだ。

近頃読むと、ぜんぜん違う本かとおもうくらいのリアリティを持って面白いのを、喜んでいていいものやらどうなのやら。

 

  未来 へ、 或いは 過去 へ、 思考 が 自由 な 時代、 人 が 個人 個人 異なり ながら 孤独 では ない 時代 へ ─ ─ 真実 が 存在 し、 なさ れ た こと が なさ れ なかっ た こと に 改変 でき ない 時代 へ 向け て。       画一 の 時代 から、 孤独 の 時代 から、〈 ビッグ・ブラザー〉 の 時代 から、〈 二重 思考〉 の 時代 から ─ ─ ごきげんよう

ジョージ・オーウェル; 高橋 和久. 一九八四年 (ハヤカワepi文庫) (Kindle の位置No.775-780). 早川書房. Kindle 版.

 

 

『竹中平蔵 市場と権力』 ~スターウォーズが倍楽しくなる一冊

なぜ今それなのか、と言われても思い出さないのだが『スターウォーズ』シリーズ(ジョージ・ルーカス時代)を見直している。

「色々言っても、わたしは戦争もSFもでっかい宇宙船も、そんなに興味ある方ではないけどね」

と今までは思ってきていたものだが、久しぶりに見直すとこれが面白くてあっという間に6本見てしまった。

 

今回のおもしろポイントは、意外にも読書体験との混線なのだ。

たまたま、Kindleセールのときに安さにひかれて買ってあったらしい『竹中平蔵 市場と権力 「改革」に憑かれた経済学者の肖像』を読んでいた。

 これがまあ面白くて、ページをめくる手が止まらない。

読んでいて「いやいや、そんな個人の普通の悪巧みが衆人環視のところですーっと通るハズないからw」という気持ちになるんだけど、どうやらやってみるとできるものらしいのが、他愛なくっておもしろい。

私も平蔵さんのお友達になってかんぽの宿を95%引きで売ってもらいたかったな、などと思っているうちにグイグイ読めてしまう。

 

この本を読み、続いてスターウォーズをシリーズで見、というのを交互に続けていくと、メキメキと、シス卿が平蔵さんに見えてくるんである。

平蔵=シス史観で見ていくと物事がちゃんと自分の思ったとおりに進んでいて、実に気持ちがいい世界観だ。

 

仕事ができるのでトントントンと出世していき、偉い人のそばでニコニコしながら機会をうかがい、弁が立つのを利用して自分の思う方に世論を誘導する。

自分に都合がいいか悪いかだけで物事を判断できるので常に決断が早く、お行儀よく戦おうとしてる人は絶対にかなわないようになっている。

平蔵卿の評伝を読んでいても

「いやいや、民主的な社会にはチェック機能とかあるし、まさか物事こうはならんでしょうよ」

という気持ちになるのだが、追い打ちでスターウォーズをシス評伝として見てると

「……あ、こういうことってわりと容易に起こるんだよな」

と、虚実の感覚が完全に逆転しつつ納得する。

フィクションの力の偉大さよ。

 

また面白いのがアマゾンの竹中平蔵卿の著者ページを見ると膨大な著作の中に『この制御不能な時代を生き抜く経済学 』とか『結果を出すリーダーはどこが違うのか』などのタイトルが並んでるところだ。

エピソード3でアナキンをダークサイドにスカウトするシーンの口説き文句にそっくりじゃないかっ。

ジェダイにくすぶっていても愛する人は守れんよ。ふっふっふっ」

っというやつで、立場が弱くて心に迷いがある若者の心を狙う権力者って、だいたい同じ感じで声を掛けてくるものらしいと観察できる。

 

 

『市場と権力』の中でに雑誌「エコノミスト」で平蔵卿と京都大学佐和隆光氏の対談において経済学者の「世代論」について論じたくだりに触れている。 

佐和 は、 経済 学者 が ある 学説 に 与する 場合、 学説 の 根っこ に ある 思想 や 価値観 を 含め て 接する ので なけれ ば おかしい のでは ない かと 問題 提起 し て いる。 近代経済学 は 特定 の 思想 や イデオロギー を 直接的 に 表現 する もの では ない が、 経済 研究 の 背後 には 必ず 依っ て 立つ 思想 が ある という 考え で ある。   アメリカ では、 反 ケインズ の 潮流 の なか で マネタリズム や サプライ サイド 経済学 が 生まれ て き た。 経済学 の 変貌 は「 反 ケインズ」 学派 の 台頭 に 終わら なかっ た。 高度 に 洗練 さ れ て 合理主義 的、 実証主義 的 な 性格 が 極まっ て くる と、 経済学 が 単なる テクノロジー と 化し て き た ので ある。   ジェフリー・サックス や ローレンス・サマーズ の 世代 に なる と、 土台 に ある 思想 構造 には 必ずしも 関心 を 示さ ず、「 単なる テクノロジー として 経済学 を 操る」 傾向 が ある と、 佐和 は 指摘 し て いる の だ。

 (Kindle の位置No.1289-1297). 講談社. Kindle 版.

 

  竹中 は、 あくまで 政策 に 関与 する ため の 手段 として 経済学 を とらえ て いる。 もっと いえ ば、 政治権力 に 接近 する ため の 道具 として とらえ て いる よう に 見える。

 (Kindle の位置No.1308-1310). 講談社. Kindle 版.

 

こんなふうに書かれるとまた、「経済学」がめちゃめちゃフォースっぽい。

なんらかのビジョンを示すものとしても使えるし、単に権力としても使える。

調和を気にしたり思想やイデオロギーに気を配ってるより、手段として倫理観から切り離して使うフォースのほうが「早く」て「強い」から、シスの悪巧みって何回観ても結局うまくいくのか、ということでたいへんに腑に落ちるところだ。

 

 

以前『女帝 小池百合子』を読みながら『ゲーム・オブ・スローンズ』を観たときも

「出た、全員小池百合子の世界!」

と思って妙な興奮があったが

今度は「竹中平蔵の悪巧みがうまくいく世界としてのスターウォーズ鑑賞」である。

今までとは全然違うタイプのおもしろさだった。

 政治家の評伝ってこれまであまり読んでこなかった分野なのだけど、読みながら緻密に作られた政治的要素の強いフィクションを並行して見ると、どっちの世界観もよりビビッドになってすごく楽しめる。

なかなかいいエンタテインメントの鉱脈を見つけてしまったのかもしれないと思う今日このごろ。

 

 

 

 

米津幻師『死神』~「えっ、俺?」のところ最高

米津玄師『死神』をずっと聞いております。

何回見ても最後で変な声が出る。


www.youtube.com

 

米津玄師って人を「なるほどあの声はこの人か」としっかり認識したのって2018年の紅白歌合戦の『lemon』の時でした。

徳島の美術館にあるミケランジェロの『最後の審判』の前で歌っていて、いきなり白いドレスのダンサーが入ってきてカメラ前であんまり激しく踊り狂うので度肝を抜かれたもんです。

「あの白い人はなんだっていきなり入ってきて歌が頭に入らない勢いで一番前で踊りまくっていたのであろうか」

という謎が正月の間脳裏を離れないまま。

「……ベアトリーチェだっ!」

と、しばらく後でひらめいたときの気持ちよさと言ったらなかったのです。

 

死を悼む歌、最後の審判、白い服の少女。

ダンテ『神曲』の、人生に迷ったダンテが地獄めぐりをした末に、天国から迎えにきてくれる聖女ベアトリーチェだったのではないか!

わかるとまあうっとりする映像で、正月の間何回もNHKアーカイブでその映像を見なおしたもんです。

なんという世界観。

 

そしたら今度は『死神』がすごいという噂が流れてくるではないですか。

死神で米津玄師ってどういうことかな、と思ってYou Tubeで見たらそういうことだった。

 

サゲで「ひょっ」って変な声が出るんだけど、何回も見てると最初から声が出るようになりますね。

「お前かっ、お前くるなっ」

っていう不吉が、もう歌より先に始まってるのが不気味で超いい。

 

落語だと、一人の人が全部の登場人物を演じ分けるので、見てる人はルールとして

「舞台にいるのは一人だけど、この人が右見たり左見たりしてるのは複数の人物を表現しているのである」

っていうのが、もう前提としてあって、慣れている人ほど勝手に情報の交通整理しながら聞いてるし見ている。

その無意識の壁を、他ジャンルの強引さでもっていきなりメリメリ突き崩してくる「歌ってるのも米津玄師、聞いてるのも米津玄師」現象ですよ。

 

これ落語だったらルール上こういうもんだから何もおかしなことはないんだけど、でもこれミュージックビデオだし、妙だな。でも噺家のかっこしてるし、末広亭だからいいのか。いやよくないわ。あれ?

とか思ってる間にも、聞いてる米津玄師の方はどうもつまんなそう。

しかし、歌ってる方はノッてて楽しそう。

おやおや、世の中ってわりとそういうもんよね。

 

噺も佳境の死神呪文「アジャラモクレンテケレッツのパー」のあたり。

落語家さんの高座で見ると、しょぼくれたおじいさんが死神相手に送る合図だから柏手みたいな大きな動きでしっかり響かせるような仕草であることが多いもんですが、

これが踊る人の所作としてやるとこういう指先の美しさになるかっ、っていう、うっとりする舞踊になっていたりもしてここでも刮目。

この高座って絶対おもしろいと思うんだけど、なんで退屈そうにしてるんだ、聞いてるほうの米津玄師たちよ。

そして合図の手拍子で一人消え、二人消え。

 

誰もいなくなったところでサラリーマンの米津玄師が足ひきずってついにホールに入ってきちゃいますね。

「え?俺?死神?」

って後ろを振り向く間も歌は止められないところがまた非常にぐっときます。

わかるよわかるよ、だってこれから面白くなるところだからね。

首をクイクイってやるだけで死神に見えるシンプルな仕草も、あれは落語の方ではみかけない形のような気がするけど、落語脳にしがみついたままでも死神に見える不思議。

「あーっ、俺かーっ。仕掛けてる方だと思ってたのに、仕掛けられてる方だったのかっ」

って絶望してる方も

「むひょひょひょひょ」

ってなってる方も、両方とも米津玄師。

からの「ふっ」で、やっぱり奇声が出る超メタ死神でした。

 

人は一番愉快なときにダークサイドに墜ちるもんだ、もう一回見よう。

っていうか、このひとの死生観どういうことになってるんだろうか。

 

 

 

 『地獄変』『煉獄篇』あたりは面白く読んでるけど『天国編』に入る頃にわりとどうでもよくなってしまう、でおなじみの神曲。でもやっぱり、どう考えてもベアトリーチェいてこその神曲なのよねえ(そして佃煮にするほど天使が出てくるのとかはスペクタクルとして結構おもしろい)

7月初旬のあれこれ。

豊作豆苗プランター

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 猫と私とで交互に食べているが、水さえやっておけば見る間にぐんぐん伸びてくるので大変楽しい。

ちょっとずつ増やしながら何回目くらいまで収穫できるものか実験中。

 

 

生産性とか追求してない謎のプランター

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やたらとにょきにょき伸びてるのは、「冷蔵庫の中でうっかり芽が出てしまったニンニク」。かわいい双葉はたぶん100円ショップの朝顔の種。あとは芽が出たはいいが肝心な葉っぱは猫にかじられたりしてるうちになんだかわからなくなった。

夏の陽射しを謳歌してくれればなんでもいい。

 

 

近所を昼寝場所と定めた顔なじみのキタキツネ。

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人間は遊歩道をあるいて森林部分には立ち入らないようになってるので、ここで寝てると誰にもからかわれたりせず、幼児から老人までいろんな人間を一方的に観察できてとても楽しいのだと思う。 ゴン、お前だったのか。

 

梅の実

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「今年はどうしようか。梅干しか。土用干しは面倒くさいから梅漬か。

とりあえず買って考えるか」

と、まったく方針を決めないまま、香りにつられて一キロ買ってしまった。

傷梅をはじいて800グラムを18%の塩分で塩漬け。

夏の盛りに気分が盛り上がれば干してもいいし、どうしよっかなあ。

 

花盛りのどくだみの花

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かわいいのに、よりによってどうしてそんなすごい名前なんだ。

 

 

茅の輪くぐり ~猫と人の無病息災

近所の神社に夏越の祓の茅の輪が出ていてちょっと驚いた。

昨年のこの時期は出ていなかったからだ。

感染症対策で取りやめていたんだろうか。

 

昨年の今ごろのことを、とりわけよく覚えているのは先代虎猫の一周忌だからだ。

ちょうど一年前、どうもなんだか猫の様子がおかしいというので動物病院につれていくと、もうすっかり腎臓が悪くて、成すすべもないまま、たったの一週間で全部終わってしまった。

家にいるときはそれこそ目も離さずにいたが、入院させていた数日間はお参りに通ったのだ。

だって、どうしようもない。

できることが何もないから、できるだけ意味のないことを懸命にした。

 

「あの子を治してくれたら、お礼に良いお酒をお供えにきます」

とそう祈ってくぐった鳥居に、あの年、茅の輪はなかった。

その後、お礼のお酒を供えにくることはなかったけれど、それでも氏神様とは結局仲良くはなって、月命日には「向こう側にいるあの子とうちにいるあの子」の安寧をお願いにきている。

私が何をやってもひとつの生き物の寿命が変えられないことはもちろんわかっていたし、動かし難く限られた寿命を持ってうちに来てくれたからこそ大事な猫だった。

 

陽射しに焼かれて夏の牧草地みたいな匂いのする茅の輪を八の字にくぐりながら、あの時「良いお酒」を飲みそびれた神様に向かってまたなんだかんだと細かい注文をする。

個体は頑張ろうが頑張るまいが寿命が来たら死ぬ。

それがずーっとずーっと連綿と続いてきた末に今地球上にあるだけの生命が結果として残っている。

進化論はじゅうぶんに魅力的で奇跡的なことであるが、それでもときどき神様に愚にもつかないオーダーも出しに来たい気持ちにはなるのだ。

なにもできることがないときは、なにか無駄なことをするといい。

 

できるだけ景気よく鳴り響くように柏手を打って一礼。

疑いようもなく実存が本質に先立っている自由奔放な黒猫のもとへ、いそいそとして帰る。

あれから一年。

ずいぶん傷ついていた君もすっかり元気になって、私は嬉しい。

 

豆苗プランター栽培の行方

 

南北の窓を開放すると風がよく抜ける造りになっている我が家のいたるところを

猫がせっせとウロついていている。

小走りでキャットタワーからリビングへ、クローゼットへ、廊下へ、書庫へ、とせわしなく移動する後ろ姿を目で追えば、小刻みに揺れるお尻のあたりに

「あー、忙しい忙しい」

という吹き出しが浮いて見えてる。

人間が見ても何の用事なのかはさっぱりわからないが、一人で忙しがってるときの猫というのはたいへんに可愛い。

 

喉元の鈴をクリスマスのようにチリンチリン鳴らしながらリビングに駆け戻ってきた猫は、突然、はたと立ち止まり

「そうだ、サラダバーへ行ってこよう!」

と思いつく。

そのままトコトコと土足でベランダへ出ていって、私が大事に育てているプランターの豆苗の中へ顔を突っ込んでもっしゃもっしゃと食いちぎった。

うまそうである。

 

「それ、私の夕飯なんだけど」

窓際まで出ていって抗議をするが、もうすっかり自分専用の豆苗畑と決めてしまった猫は私のことなど意に介す素振りもない。

たのしそうに青草の中に鼻先を埋めている。

肉食の生き物ゆえ、炭水化物はあまり消化によくないのではないかと思ったが、どうやら豆苗を食べているときのほうがあまり餌を吐いたりすることもなく却って快適そうにも見えるし、しばらく放っておくことにしている。

こたつの中にばかりこもっていた長い冬の後で、日光や、日光をたっぷり浴びた草の匂いが、きっと気持ちがいいのだろう。

 

「また伸びたら続きたーべよ」

と、思ったのかどうか、半分ハゲ山みたいになった豆苗畑から突然顔をあげて、タッタと小走りでリビングの中へ駆け込んでくる。

ポケットにおやつの残りを入れて公園へ走っていく小学生みたいだ。

 

「足拭いて入りなさいよー」

何が面白いのか毎回同じ戯言を飛ばしてくる飼い主を無視して毛づくろいをすませると、ふすまを取り払った涼しい押入れの中に入っていく。

暑がりな猫のために接触冷感のハーフケットをかけてやっている布団に飛び乗って、手足を長く伸ばして食後の昼寝だ。

なにそれ、夏の猫ってなんでそんなに楽しそうなの、なあおい。

しまいにはなんだかちょっと悔しいので、立っていって丸い背中のあたりをツンツンつついてみるが、もうすっかり、彼女は日向と風の夢を見て遠くで遊んでいるのである。

 

 

 前々からちょっと気になっていた接触冷感のタオルケットをニトリで買ってみたら大変に気持ちが良かったので、小さいのを猫にも買ってやった。

猫も大変に気に入ったようで、今年はふたりなかよくひんやりしている。

 

 

 

 猫ってほんとうに、ずっとずっとずーっと夏への扉を探してまわっている。そしてついに夏は来る。人類は彼らの希望の持ち方に平伏せねばならぬ。