晴天の霹靂

びっくりしました

むっと聞きたいだけなのに

うちの猫はそーっと後ろから指でつつくと「むっ」という。

飼ってない人にとっては「猫はにゃあと鳴くもんだ」という思い込みもあるだあろうが、やつらはけっこう「むっ」という。
中でもうちの子はよく「むっ」という。
垂直ジャンプをする時も、猫じゃらしにとびかかるときも、勢い余った力が音声となってだだ漏れやすいタイプの愉快な子なのだ。

 

わたしがひとりテーブルでご飯なぞを食べていると、ついでみたいな顔でそっと近づいてきて素知らぬふうに窓から外を眺める。
寂しくて人の居る方に近づいてくるのだから、素直にすり寄るなり膝に乗るなりすれば良いものを、わざわざ素通りして、いかにも外を見てるふりなどするところがしゃらくさい。
しかしこちらの気配に全集中してるのは耳の角度から確認済みだ。

 

おもしろいのでそーっと手を伸ばして背中をつつく。
「むっ」
と言ってちょっとだけ迷惑そうなそぶりなどしつつ、振り向く。
不意打ちしてるようで悪いが、その点に関しては、こちらにも言い分はある。


そもそも自分のタイミングでしか膝にのってこないし、ほとんど抱っこもさせてくれないし、爪も切らせてくれないような猫だ。
それでもこちらは毎日トイレも掃除し、水のボウルも洗うし、餌もやってる。
飼い主としては、ときどき「むっ」と言ってもらうくらいの権利はあるんじゃないか。

 

猫はまた外を向き、私はまたご飯の続きを食べる。
そっぽを向きながら、お互いを背中で意識する時間が流れる。
「まだ早い」「そろそろいいかな」「もうちょっとだけ待つか」
わたしは大根の塩麹漬けなんかをかみしめながらじりじりとタイミングをはかる。
ほとぼりが覚めたころにもう一度そーっとつつくと、もう一回
「むっ」
が聞けるのである。
タイミングが早すぎると、二度目の「むっ」はない。
それは「ししおどし」と似たようなシステムであって、ある程度時間をかけて「待ち遠しさ」を蓄積しないと鳴らないのだ。

聞き逃すともったいないので、すべてご飯を食べ終わるまで我慢する。

最後の一口を飲み込むとともに、いよいよ満を持して、黒い背中をちょんとつつく。


「むっ」

 

言ったあ。今日は二回「むっ」ていったあ。
あんまりうれしいのでどさくさに紛れて抱き上げてやろうとにじり寄ると、無法者に蹴散らされた子鳩くらいの勢いで全力で押し入れの天袋まで一目散に逃げていく。

いったい私が何をしたというのか。

いいえ、わたしはただの疲れ目です

気付いたのは、ほんとにここ最近それこそ数ヶ月のことだったんです。

夜、コンタクトレンズを外して(子供のころからのド近眼)、お布団に入ってKindleを開いて、読みますよ。

夜寝る前の時間帯は照明落とした部屋で猫がなんだかんだ騒いだりしますので、様子見るためにちょっとメガネ掛けたりします。

「そんなとこでなにやってんの、こっち来たら」

なんて声かけてから、手元のKindleにまた視線を戻すと、これがどうでしょう。ゲシュタルト崩壊してるじゃありませんか。

「おおっ、なんだなんだ。意味がぜんぜんわからないぞ」

なんて思って、ぱっとメガネ外しましてね。

そうすると、さっきまでの見え方にもどりますから、

「ちょっとぼんやりするけどこのままでいいや」

っていうので裸眼のままで続きを読みます。

「いやあ、深夜だし、部屋暗いし。ちょっと目疲れてたね」

なんて思うことも、数回重なるとなると、さすがにハタとよぎる思いがあるのです。 

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まさか。

少なくてもこの先十年は一切認めるつもりはなくて、私は単に「子供のころからド近眼」の人であることを一切譲るつもりはないですし、私が認めない限りは誰にもそんなことはさせんですけども(支離滅裂)。

まあ、それはそれとして、目についてはいろんな噂を聞きますね。

聞くだにそりゃあ不便なことになりそうな気がしてクラクラいたします。

 

だいたい目って耐用年数がおかしくはありませんか。

織田信長の時代でさえ「人間五十年」なのに、目は四十年ちょっとでそろそろあぶなっかしいって、誰がどういう計算のもとで設計するとそんな具合になるのか。

平均寿命まで生きるとすると、本が読みにくくなってから先の方が人生長いって。その点、どうなんだ文明社会。

 

とはいえ、まあ自分が嫌で嫌で仕方ないものを取り込みながら生きてゆかねばならんのだとしたら、どうせなら嫌であれば嫌であるほど、ネタとしてはちょっとおもしろいなあ、という負け惜しみによる元気回復も、もちろんいったんは考える。

「最近、近視用のメガネかけるとなんか本が読みにくいんだよ」

なんて言ったら、そりゃあ同世代以上の人は両手を挙げて喜んでくれるに違いあるまい。

……本を読みにくくなるんだとしたらすごい嫌だなあ。

……でもこれで人と仲良くなれるならちょっと得かなあ。

 

しかし、私は絶対に認めない。

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イワキの水滴式コーヒーサーバー ~フィルター詰まりは酸素系漂白剤で取れる

 

昨年の8月に買ったお気に入りの水出し珈琲サーバーを、買って以来一日も欠かさず快調に使い続けている。

 手軽なのもいいが、何より、おいしく入るのだ。

「水出しならあんまり雑味も目立たないだろうからスーパーの安い豆でもけっこう美味しく飲めるのではないか」

などというヨコシマなことを考えながら買った器具だが、試してみれば、そのへんはやっぱり几帳面なもので、ちゃんとそれぞれ「豆の値段なり」の味の珈琲ができあがる。

 

それでも、しばらく安い豆で薄めに水出しをし、牛乳で割って飲んだりしてた。

しかし、散歩の途中で近所の自家焙煎珈琲豆専門店なんかを発掘して歩いているうちに、

「せっかく淹れるのに美味しく飲めない豆を買うのも切ない!」

というような運びになり、最終的にわりといい珈琲豆を買う生活に戻ってしまった。

うちのまわりには美味しい自家焙煎珈琲豆専門店がやたらあるせいだ。どうしてくれる。

 

色々研究してみた「味と値段の組み合わせ」について言えば、美味しい珈琲豆はどんな淹れ方しても基本的に美味しいし、安い豆だと水出ししてもやっぱりミルクやら砂糖やらいれないと飲みにくい。

ただ「水出し」の方法にはちょっと差があって、だしパックなんかに珈琲の粉を淹れてポットの水につけておくいわゆる「浸漬式」だと、あまり味も香りも十分に出ないような気はする。

良い豆で水出し珈琲を作りたいときは安いものでもウォータードリッパーがあると、だしパックとはだいぶレベルの違う水出し珈琲ができる。たぶん。

(と思ったけど、考えなおしてみると浸漬させておく時間の試行錯誤とかがたりなかっただけの可能性もある。素人が迂闊なことを書いて申し訳ない)

 

そんなわけで超お気に入りのお手頃価格イワキのウォータードリップサーバーであるが、半年ほど毎日使ってフィルターが詰まるようになってきた。

一番上の水のタンクからは一滴一滴水滴が落ちるが、その下の粉のはいったフィルターが目詰まりをしていて、サーバーに珈琲液が順調に落ちていかないため、途中から溢れてしまう。

フィルターを丁寧に洗って再度やり直しても、やっぱり詰まる。

直接珈琲豆が触れるところだから、匂いが強い台所洗剤を使って洗ったりはしない。

いつも水で珈琲カスを洗い流しているだけなので、時間とともに少しずつ珈琲のオイルが付着していたとしても不思議はないところである。

さて、匂いがうつらず、樹脂をいためず、脂分を除去できる洗剤とはなにか、とちょっと考えて、家にある酸素系漂白剤につけてみた。

サーバーにぬるま湯をはってフィルターをいれ、酸素系漂白剤をいれてしばらく放置。

酸素系漂白剤 500g

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 うっすら珈琲色に染まっていたのが新品みたいにきれいになったし、匂いうつりもまったくないまま、また快調に濾過できるようになった。

これでまた当分の間毎日せっせと使える見込みである。

どこかが壊れるまで使い続けることであろう。

 

一人分、いっぱい分の珈琲って、ペーパードリップだとどうしてもちょっと軽く入りがちだが、これで一日分淹れておいて飲むときにレンジで一杯分ずつ温めて飲むと、しっかり味も香りも出てて美味しいと思う。 

説明書では「粉40グラムで出来上がり440cc」となっていた気がするが、氷をいれてのむわけではない場合、それだとちょっと濃い。我が家は30グラムの粉で作ってちょうどいい濃さに感じる。

 

 

お題「#新生活が捗る逸品」

『生きるとか死ぬとか父親とか』さらにうちの父親とか。

 美容室へいったら、もう何年も懇意にしてもらってるおとぼけ美容師(推定50歳前後・美女)が

「三週間前に突然母が亡くなったんですよ」

という話をしはじめた。

そういうスナック感覚とも言い難い話を美容師さん側からふるのも結構変わってるような気はするが、そういう人柄、そういう関係、そういう美容室なので引越し後も遠路はるばる通っている。

なんでも数日前に実家(高速道路で三時間くらい)に帰って、白髪染めなどしてあげてきたばかりだったらしい。

一切病院にもかかってなかったような健康な人だったが、その数日後の朝、布団の上で亡くなっていたのだ、と言った。

 

「うちも去年の夏だったんですよ。ガンはあったそうですが急なことだったみたいで」

と、私もついついしゃべる。

「男親が先にいって、女親はとりあえず無条件で平均寿命までは生きるものだと思い込んでるからびっくりしますよねえ」

「ほんとうにそうなんですよねえ」

実家を離れてからの暮らしの方がすでに長く、別に守らねばならぬものがある生活者同士なれば感傷的な話にはならないものだ。

「私は20年会ってなかったので、いまだ悲しいという気持ちには一度もなってないんです」

といえば、向こうも

「仕事でずっとお世話になってた人のお葬式にいったときは『あんた愛人と間違われるからそろそろ泣くのやめなさい』とたしなめられたほど号泣したのに、親の葬式は全然泣かない」

という話をする。

 

実際のところ私は、同性の親については「自分が生きてる限り母親も半分くらいは生きていると言っても過言ではない」と思ってる節が、どうやらあるのだ。

個体としての死がピンとこないほど払拭し難い遺伝子の近さだからこそ、20年も音信不通、という事態も発生したような気もする。

そこへ行くと遺伝子の近さはさほどかわらないだろうに、うってかわって父親が他人である度合いたるや、これまたすごい。

それこそ、20年も合わずにいるとお互い目を見張るほどの知らない人なのであり、40女を捕まえて「お前、身長いくつなんだ。大きくなったな」などと素っ頓狂な会話を次から次に繰り出されたりもする。

 

だから我々の話題は「母を失った悲しみ」などではなく「父という老齢男やもめが爆誕した戸惑い」ということになる。

まったくこんな事態は予想もしなかったのでびっくりするわねえ。

「だけど」と切りたての髪で家へ帰ってきてから、まだ私は考えるのだ。

どうしてそんなに思いもかけなかったのか。

 

ひとつの家庭、ひとつの共同体が「ふつう」であるように見えるとき、それはたぶん特定の誰かに恒常的に負担を強いているということだ。

個々のいびつさは全部飲み込んで、一方で自分の欲望や個としての可能性などないものとして扱うことで、全体として「ふつう」の範囲からはみ出ないように調整している人がいる。

だから「ふつう」のものは「ふつう」に見えているのだ。

私が育った家庭は、四人家族一男一女パート勤務主婦の「ふつうの家族」だった。

本当に言うのが苦しいことではあるけれど、娘の目に母は向上心も可能性ももたない、生気に欠けた愚痴っぽいだけの人であるように写った。

母はあの家で、自分を何でも飲み込む緩衝材として扱うことで「ふつうの家庭」を維持していた。

亡くなってから気付いたことだ。

あまりにも自然だったので、父も兄も私も、誰も気づかなかったし、団塊の世代が築いた家庭というものは、身辺に観察できた限りではどこもだいたいそんな感じだったのだ。

 

だからだ。

だから、わたしたちは「母は先に死なないもの」と思っているのではないか。

母は、あまりにも私たちにとって「何もかも気づかないうちに円滑に調停してくれる人」でありすぎたから、寿命だってきっとうまい具合にバランスとってやっておいてくれるはずだと。

 

父は会うたびに言う。

「後に残されたほうは本当に貧乏くじだ。いいことなんかひとつもない」

それは彼独特の冗談でもあり、本音でもある。

軽口を叩きながらも、それほどしょぼくれてるわけでもなく友達をつくって結構楽しそうに生きてくれているところは、ちょいと尊敬さえもする。

しかし、その軽口の中にこそ、我々残留組がやらねばならぬことがあるかもしれない。

そのいわゆる「貧乏くじ」を、今までは一体誰が引き続けていたのか?

先に消えてしまった「母」という不在を取り巻きながら、いびつさを取り戻した家族が続いていく。

この順番でなかったら、もしかしたら本当に、我々は何も知らずにすませてしまったかもしれなかった。 

 

 

 

 

 どれくらいの距離をとったら適切なのかがさっぱりわからない「20年ぶりに会った他人みたいな父」と、月命日ごとになんとなく納骨塚で待ち合わせする習慣を私が作ったのは、エッセイ『生きるとか死ぬとか父親とか』がヒントだ。

あまりにも他人すぎるので「老化とか心配だからたまに様子見にくるよ」みたいなことはお互いどうもやりにくいが、「ちょいちょいお参りにくれば母さんも喜ぶんじゃないか」のニュアンスにすると生存確認がやりやすい。

墓参り(うちの場合は墓ではないが)ってのは、本当に生きているものにとって良く機能してくれるシステムである。 

 

 


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エッセイ集『生きるとか死ぬとか父親とか』は4月からドラマ化されて始まった。

吉田羊さんになると原作者のもつ規格外のエネルギーが全部洗い流されてしまうではないのっ!なんてことを思いつつ、やはり興味津々で見ている。

幻想の安寧が崩壊する夜と、突っ張り棒が落ちない君。

人生にはしばしば、突っ張り棒が落ちる夜がある。
落ちたのちの惨状を目の当たりにしてはじめて人は、この空間はギリギリの力学バランスで持ちこたえていたあって、昨日まで落ちずにいたことがむしろ奇跡であったということを知る。
生活とは、たえずどこかに負荷をかけつづけることで辛くも維持されている幻想の安寧でしかない。

 

だがしかし、今は、そんな話をしたいのではない。
数日前に突っ張り棒が落ちたのだ。
うちには、押し入れに居座って時を知らずひとりゴロゴロ言うのが好きな猫がいる。

ゆえに、押入れの突っ張り棒を「いつ落ちるともしれない状態」にしておくわけにはいかないのだ。
できれば突っ張り棒の両端に、なにかしら滑り止めになるような金具をつけて補強したいところである。
しかし傷をつけることがはばかられる賃貸暮らしであることに加えて、押入れの壁面はへなへなのベニア板だったりすることも考え合わせると、補強というも案外難しい問題である。

 

はてどうしようがあるかしら、と思って「突っ張り棒 落ちない」などと漫然たる検索をしてみるとズバリ「突っ張り棒が落ちない君」がヒットした。

何の叙情も感じない見事な名前だ。

プラスチックのぺらぺらしたものをホッチキスの細い針でガンガン壁に固定していってその上から突っ張り棒を突っ張るだけという、馬鹿みたいに単純なアイディア。

しかし、実際取り付けてみると穴が残ることを心配することなくどこにでも設置できるし、ホチキスとは思えない十分な安定感もあって感動した。

馬齢を重ねゆくばかりで、今までどうして自力でこういうことを思いつかなかったものか。
貧乏くさいといえなくもないが、こういう重箱の隅をつつくようなナイスなことを考えてくれる人は本当にありがたい。
これから先、わたしの人生には、突っ張り棒が突然落ちる夜などもうこないと思うと、ちょっとした恋愛感情まで湧くのである。


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お題「#新生活が捗る逸品」

『百年の孤独』~なぜ地味な世界に突如派手なものが出現するのか

着々と日が長くなり、昨日まで何もなかったところに植物が芽吹く。

日ごとに生命に刮目する季節がやってくる。


そもそもおかしいと思うのだ。
冬の間は空気も灰色かったし、雪の下からやっと出てきたぬかるみは黒っぽい茶色だし、雪解けの水だって泥の色だ。
そういう地味な色の粒子をいくら混ぜあわせたって鮮やかな色などできっこないのに、花はある日突然、そういうよどんだ色の中に突如として不自然な彩度を持って出てくる。
どこから来るのか、この緑は。紫は。黄色は。白は。

 

唐突な色彩に驚きつつ4月の風の中をウロウロしていたら『百年の孤独』を読みたくなった。

最初に読んだときは、登場人物が全員同じ名前であることに目がくらみ、傍らで家系図を作りながら読むのに労力を割いてしまったために、読書してるんだか知らない人の身元を調べてるんだか、なんだかわからない時間になってしまった記憶がある(おもしろかったけど)。

それでも一度読むと「誰が誰でも別にいい」ということがだいたい把握できてるので、二度目からは、ただやたら誇張と驚きに溢れた世界を好き勝手に泳ぐように読むことができる。

世界は未知の驚きで満ち溢れてるようにも見えるし、全部の生命が最初からプログラムされてることをただ唯々諾々とやっていって、誰も彼も大差なしに寂しく死んでいくようにも見える。百年なんて、長いけどすぐだ。

 

現実がそもそも魔術的であるこの季節に読むと、死に向かう生命力の中で活字がピチピチと飛び跳ねるように身に染みる。

コンゴウインコの青い肉、腸を駆けめぐる風。

たしかめようもないが、私が気づいてないだけで、世界は本当にそんなふうなのかもしれない。

 

 

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)
 

 

4月のムラサキッカス

今日から4月になったことを正確に知っているのかしら、と思うくらいの勢いで、いきなり一斉に道端のクロッカスが咲いた。

昨日まで何もなかったはずのところがあまり見事にクロッカス畑になっているので

「ああ、クロッカス」

と思わず声に出すと

「なになに、クロッカスってどれ」

と隣を歩いていた知人が聞く。

 

そうか花に興味がない人はクロッカスもしらないものか、と思いつつ

「あそこにたくさん咲いてるじゃん」

と指をさす。

「何色のがクロッカス?」

 

たしかに紫やら白やら黄色やら、色とりどり咲いてはいるが、

いくら花に興味がなくても普通に見れば「全部同じ花だ」くらいの識別はつくものではないだろうか。

はたしてこれは本気で聞かれている質問であるか、と考え込んでいると、

間の悪いことに、今日はエイプリルフールであることを突如思い出して悪ノリを我慢できなくなってしまうのだ。

 

花畑を順に指差して説明する

「あれがムラサキッカス。これがキイロッカス。あっちはシロッカス」

「クロッカスは?」

「うーんと、これ」

と、いくつか紛れ込んで咲いている福寿草を指す。

「黒くないじゃん」

「最初は黒いんだけど、満開になると色が変わる」

「ふーん」

「……」

 

フォローとか弁解とか訂正とかしにくい雰囲気になってそのまま通り過ぎてしまったが、果たしてこの一件はこのまま一生放置しておいて大丈夫な案件だったであろうか。

花をまじまじと見たことがない人はクロッカスと福寿草が別の花だという区別もつかない、なんてこと、あるかしら。

この場合、4月早々騙されているのは、私なのか知人なのか、どっちだったんだ。