晴天の霹靂

びっくりしました

カジュアル写経 ~無言の時間を共有するにも効果的

 我ながら思いがけないことに、近頃少々写経をしている。

思ったよりずいぶんとカジュアルにできるもので、薄い和紙の下にお手本を挟んで上からなぞれば、あの虫みたいに細かい毛のたくさん生えた複雑な漢字を知らなくても一応ちゃんと書けるようになっているので驚いた。

写経用紙と、そこらへんで売ってる細字の筆ペン一本あればできる。

夢中になって書いてると、これが案外と面白いものだ。

 

 「色即是空」と書いて、この漢字はゴロもいいし、字の意味も分かりやすいし、音もいいし、いい気分だな、などと上機嫌になっていたら、そのあとで、しかし「空」ってのはあれでもない、これでもない、とか言ってるらしき文字が延々と続いていって

「うっそ、さっきと言ってることなんか違くない?」

と戸惑っていたら、結局何のことだかいまいちよく分からないままにいきなり「ぎゃーてーぎゃてー!」とか派手に景気づけてもらって終わる。

ちょっと煙に巻かれたっぽかったけど、かっこいいから良いような気がする。

なんか、元気づけてもらったようだし。

 

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色即是空とは何ぞ菊の花活く

 

1984年、枝豆の端っこ


「収穫したら早く茹でないと味が落ちるって言われたから、それじゃあ仕方ないやるかと、茹で方をググったんだよ」

と言って齢70を過ぎたその男は冷蔵庫からタッパーに入った枝豆を出してきた。

何、枝豆を茹でられるようになったのかっ!

心臓がドキドキする。

 

緊張のあまりうまいうまいと芝居がかって大げさに褒めながら、改めてさやを見てふと漏らした。

「あ、端っこ切らないタイプの茹で方なんだね」

「そうなんだよ、ネットで見ると両端を切れって書いてあるけどなあ」

「昔うちで茹でてたときも端っこ切ってたことなんかなかったよね」

「うん」

実にシンプルに話が一致するのでひるむ。さすが肉親。

 

人格が固まるまでインターネットに触れずに来た世代の己の感覚への信頼度は大したものだ。

完璧な枝豆の端っこを見つめながら私はひそかに感心した。

 

どういうルートで話が流布するのか知らないが、近頃のネットのレシピはほとんどすべて枝豆の端を切り落として塩味がしみ込みやすくすべし、となっている。

だが、子どものころは端っこを切った枝豆など見た覚えがないし、

最近の発明なのかと試してみても、さほど塩気が入る気もしない。

それでもまあ、「みんながそうやってるって言うから」、いつの間にかさやの両端を切り落としてから茹でるようになった。

なんなら昔からこういう形の枝豆を食べて育ってきた気持ちにすら、なりかけていたところだった。

 

ジョージ・オーウェルの『1984年』は歴史を改ざんして人心を操る近未来を描いたSFである。

その全体主義ディストピアでは、声のでっかい人が繰り返し同じことを言いさえすれば、最初は「そうかなあ」などと思っていた人もいつの間にか苦もなくなんでも信じ込むようになっていく過程が記されている。

 

「こんな未来が来たらはたして私の知性で抵抗は可能なのだろうか」

などと心配しながら読んだりしたものだが、ちゃんちゃらおかしい。

たかだが枝豆の茹で方ひとつとってもすでに十分怪しいではないか。

私の1984年の枝豆は、まさしくこの形だった。

わざわざ自分の意見と天秤にかけるまでもなく、ネットの多数決より自分の記憶を採用して飄々としている70代の感性は実に信頼に足る。

 

でもさ、枝豆は茹であがったらすぐ冷ました方がいいよ。

味はうまいが色が悪いし、母だって毎回ちゃんとうちわを使って冷ましてたはずだよ。

……という言葉は、もちろん飲み込んで。うまいうまい。

 

 

 

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四十九日弔えば枝豆の青

イワキ ウォータードリッパー~一滴ずつたまる瞑想珈琲のヨロコビ

つい先日Amazonのタイムセールで買ったばかりのウォータードリッパーが届き、予想を超えて面白いので喜んでいる。

 

 

この夏は出汁用パックにコーヒー粉をつめて冷蔵庫で8時間以上浸す方法で水出しアイスコーヒーを飲んでおり、結構満足していたのである。

「あんまり口当たりが軽すぎるような気がしないでもない」

という疑惑をだんだん持ち始めたので色々研究すると、安価で滴下式水出しコーヒーがいれられるイワキのドリッパーがヒット商品らしい、という情報を見つけたのだ。

 

真ん中のフィルター部分にコーヒー粉を入れてまんべんなく水で濡らしスプーンの背で平らにならしてから、上のドリッパーに440cc程度水を入れてセットする。

ドリッパーの中央の小さな穴から、4時間ほどかけて水は一滴ずつしたたり落ちて真ん中のコーヒー粉の層を通過し、サーバー部分にコーヒーが溜まっていく。

 

届いたばかりで、淹れるにもそれなりに時間がかかるので味の方はまだ研究中である。

パックに詰めて浸しておくよりも間違いなく香りはしっかり出てインパクトの強いコーヒーができるのは間違いない。

説明書通りに40グラムの粉を使ったら常温ストレートで飲むには濃すぎたので挽き方や量を工夫しているところだ。

 

ひとまず味はさておいても、とにかく風景が良いことに上機嫌なのだ。

自分が後ほど飲むコーヒーがゆっくりと一滴ずつ滴って水面を揺らし続けるのを見ているのがなんとも幸せなのでちょっとびっくりした。

そうか、パックを突っ込んでおくコーヒーは淹れ方がちょっとつまらなかったのだ、ということに初めて気づいた。

 

日々、夜が長くなっていく秋の夜にコーヒーが一滴ずつたまるのを見ていると大変に瞑想的な気持ちになる。

そうやって見守ったコーヒーを飲む満足感。

好きな喫茶店で豆を買ってきて、ミルで挽いて、という手順から最近少し遠ざかっていたものだから、コーヒーに関して忘れていた色々を久しぶりに思い出した。

家で飲むコーヒーは、入れる手順も味のうちなのだ。

 

 

 

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コーヒーの一滴落ちて秋の暮れ

 

セイコーマート ミントハイボール ~うまいのかどうかよく分らないが好きな味もある

 

先日北海道民の魂を支えるコンビニチェーン「セイコーマート」に久しぶりにふらっと入ってみたら、なんだからいろいろと面白かった。

地元産の食材を使ったオリジナル商品がずいぶんたくさんあるうえに、価格も全体的に安く、全般的にほどよくあか抜けないのが見ていて楽しい。

こんなリトルパラダイスだったのか、セイコーマート

 

その日、とくに目についたのは酒類売り場の「ミントハイボール」である。

もともとミントが好きなうえに、たまたま暑い日で心持ち喉が渇いていたせいか、やたらと美味しそうに見える。

アルコール分解酵素をたいしてもたない遺伝の体質で、普通に暮らしていて自発的に飲むことがあまりないのだけれど、涼し気なパッケージを見ているうちに6%のハイボールのショート缶一本くらいなら

「……飲めるんじゃないかな?」

という気に、ふとなった。

 

買って帰って寝る前にぷしゅっと開けてみる。

ミント独特の、薬品みたいな、口に入れていいのかどうかいまいち確信がもてない感じの強引な爽快感に、ジンの薬品くささまで加わって、ちょうどいい具合にブルッとする。

爽やかである。

ビールよりだいぶ爽やかである。

とにかくブルっとする。

「あー、うまいねー。爽やかだねー」

 などとブルブルやっていたら案の定半分飲む前に完璧な酔っ払いとなり、残りは飲み損ねた。

カマトトではない、遺伝的な体質だ。

 

「しかし、アルコール成分はともかく、あのぴりっとするメンソール感が忘れられない」

などと密かに思って、半分しか飲めなかったくせに翌日もう一本買って冷蔵庫の奥深くに丁重に埋蔵した。

どうせまた半分しか飲めないが、いつか、また調子に乗った日に飲もう。

ミント好きには謎の中毒性のある、危険な液体である。

 

 

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セイコーマート ミントハイボール

 

『二百十日』~風の厄日は遭難に注意

「いくら温暖化とは言えさすがにこの暑さは異常が過ぎるのではないか」

と思っていた猛暑から一転、夜が来て朝が来たらいきなり涼しくなっていた。

肩透かしに感じるほど一気に過ごしやすいが、それにしても雨は盛大に降っており、お出かけ日和になったわけでもないのだ。

 

暦をみれば、実に明日が二百十日である。

立春から数えて210日目は暴風雨が多いとされる雑節、というのは俳句の歳時記をよく読むようになってから知ったことだ。

暴風雨ってわけでもないけれど、たしかに気候はここを目印とするようにガラッと変わったなあ、と感心する。

 

暑さのせいで近頃ちょっとサボっていた買い物に久しぶりに出るが、濡らしたくないお米は買えないし、お線香を付けるのに使うチャッカマンも、なんとなく濡らすのが不安なので買わずにしまった。

お供えの花束だけはしっかり買って帰ってくると、湿気の多い部屋の中にたった一輪の薔薇の香りがしっとりと立ちこめて不相応なほど豪華な気分になる。

 

なんとなく忙しない夏だったけれど、こうやって薄衣を脱ぐようにして終わっていくものか。

久しぶりに涼しいのでご機嫌でまとわりついてくる黒猫の腹を撫でながら、ほんの少しだけ暑さを惜しむような気持ちも湧く。

二百十日は天候が変わりやすくて遭難しやすいから、気をつけなさいな」

二百十日・野分 (新潮文庫)
 

 

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迷い来て逃げぬとんぼよ君は誰

 

ウォータードリップコーヒーサーバー欲 ~熱をかけないコーヒーにハマった夏

今年は水出しアイスコーヒーをよく飲んだ。

スーパーで売ってる結構安い豆を買ってきて出汁とり用の使い捨てパックに詰め水で8時間以上浸出する。

熱をかけないのでえぐみのような比較的出にくく、安い豆でもわりと飲める。

雑味が出ないぶん、全体的に薄く抽出されてるのでもあって濃縮した麦茶みたいとも言えば言えたのであるけれど、

「夏場にたくさん飲む用としては淹れるのも値段も手軽だしとりあえずこれで十分である」

と結構満足してよく飲んだ。

 

たまにお気に入りの喫茶店で焙煎したての豆を買ってきて同じ方法で浸出すると

「コーヒーって豆でこんなに味が違うのかっ」

と改めて驚愕するのもさることながら、それほどいい香りの豆を買っても甘さ中心に溶けだしているばかりでコクとか苦みとかがもったいないほど捨て去られてしまっていることにも気づく。

 

熱をかけないでコーヒーを抽出する、という方法自体はすごく面白くて気に入ってるのだけど、もうすこししっかりと風味を出す抽出法ってないものか、ということをぼんやりと考えてもいた。

そこで見つけたのが比較的安価なiwakiのウォータードリップサーバーである。

 

湿らせたコーヒー粉の上に水を一滴ずつ滴下させることで熱を加えないまま数時間かけてゆっくり濃いコーヒーを抽出する。

興味深い。

これから暑い季節が終わっても、こうやって水出ししておいたコーヒーをレンジで温めて飲めばいつでもインスタントコーヒーなみにお手軽にドリップコーヒーが飲めるのではあるまいか。

 

欲しいが、うちの台所におくには少しかさばるだろうか。猫が興味を持ったりすると面倒だ。どうしようどうしよう。

とカートに入れたまましばらく悩んでいたら、見透かされたようにAmazonタイムセールで500円ほど値下がりした。

 

「なんだよ。セールだからって買うのはなんか不本意なんだよ、やめろよっ!」

……などと最後の抵抗を試みている。

なぜAmazonはいつもこういういらっとするタイミングでセールになっているのか。こっちの動向をどこで見てるんだ。

 

水出しコーヒーで価格と味と手軽さのバランスの到達点を見つけたい欲は高まってしまった。

くやしいけれど、どうせ買ってしまうことであろう。

ギャランドゥ、ギャランドゥ。

 

 

タイムセール30日の23時59分までらしい(ちょっと腹立つ)。

 

 

ちなみに出汁パックで浸出アイスコーヒーをつくるときもiwakiのガラス製のキャニスターを使っている。

アイスコーヒーを作らない季節は普通に食料保存容器として使えるし、耐熱なので塩こうじとかヨーグルトとかを発酵させるときにも使えてとても便利。

 

 

『生きるとか死ぬとか父親とか』 ~あんたあたしのなんなのさ

切り花の高かったお盆の時期が過ぎてまた価格が戻ったと思ったら、並べられた花の色がめっきり秋ぽくなっている。

ワレモコウという、派手さのまったくない、ぽつんぽつんと離れて揺れるぼんぼりのような花がかわいくて、買って帰った。

秋には地味な色がよく似合う。

 

 

近頃読み返した軽妙なエッセイ集である。

母に先立たれて20年、二人きりで残された父と娘が関係を再構築しようとするエッセイ、ミニマム家族の物語だ。

未婚で中年の娘、後期高齢者の父。

家族の季節は秋である。

生きるとか死ぬとか父親とか

生きるとか死ぬとか父親とか

 

 

娘にとって父親っておもしろいなと思うのは、思春期くらいから先、それがどういう人なのかまるきり分からなくなる点だ。

「母の夫」であることは重々知っているのだが、その男性が自分にとって何なのか、というのはいつからか直感的にあまりピンとこなくなる。

さらに面白いのは、たぶん父親のほうでも、ある年齢から先は「娘」ってのはどういう人なのかあまりわかってない形跡が感じられる点だ。

「なんか小さい頃から家にいた女の人」と思われてるのは知っているが、共通の話題も趣味もないし、生理的に理解しあえる共通項もない。

 

父と娘は核家族的関係において一番訳の分からない、したがって持ち重りがし、努力しなければ容易に縁が切れてしまうぶん、図らずも高度なオリジナリティにあふれてしまう関係ではないか。

 

どこまでなら生活に介入しても邪魔じゃないのか、ギャップばかりの価値観に踏み込まれることをどこまで警戒していいのか、どれくらい肉親を演出するのが適切なのか、どの程度年寄り扱いしても失礼じゃないのか、皆目見当もつかない癖にひとつもヒントがない。

 

世界に「母」という緩衝材を失った父と娘は山ほどいるのだろうけれど、きっとそれぞれいびつで素っ頓狂な「普通の親子ごっこ」を手探りで続けたり、修復不可能な失敗をしたり、しているのだろう。

 

家族関係というものは絶対に美談じゃないが、それでもいくばくか「愛」と呼んでいいものがあるのだとすれば「いびつで素っ頓狂」をあえてやっていこうとする戸惑いの中にだけ、それは僅かながらありうるのかもしれない。

 

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吾亦紅(われもこう)とまどっていてぽつぽつり