「収穫したら早く茹でないと味が落ちるって言われたから、それじゃあ仕方ないやるかと、茹で方をググったんだよ」
と言って齢70を過ぎたその男は冷蔵庫からタッパーに入った枝豆を出してきた。
何、枝豆を茹でられるようになったのかっ!
心臓がドキドキする。
緊張のあまりうまいうまいと芝居がかって大げさに褒めながら、改めてさやを見てふと漏らした。
「あ、端っこ切らないタイプの茹で方なんだね」
「そうなんだよ、ネットで見ると両端を切れって書いてあるけどなあ」
「昔うちで茹でてたときも端っこ切ってたことなんかなかったよね」
「うん」
実にシンプルに話が一致するのでひるむ。さすが肉親。
人格が固まるまでインターネットに触れずに来た世代の己の感覚への信頼度は大したものだ。
完璧な枝豆の端っこを見つめながら私はひそかに感心した。
どういうルートで話が流布するのか知らないが、近頃のネットのレシピはほとんどすべて枝豆の端を切り落として塩味がしみ込みやすくすべし、となっている。
だが、子どものころは端っこを切った枝豆など見た覚えがないし、
最近の発明なのかと試してみても、さほど塩気が入る気もしない。
それでもまあ、「みんながそうやってるって言うから」、いつの間にかさやの両端を切り落としてから茹でるようになった。
なんなら昔からこういう形の枝豆を食べて育ってきた気持ちにすら、なりかけていたところだった。
ジョージ・オーウェルの『1984年』は歴史を改ざんして人心を操る近未来を描いたSFである。
その全体主義ディストピアでは、声のでっかい人が繰り返し同じことを言いさえすれば、最初は「そうかなあ」などと思っていた人もいつの間にか苦もなくなんでも信じ込むようになっていく過程が記されている。
「こんな未来が来たらはたして私の知性で抵抗は可能なのだろうか」
などと心配しながら読んだりしたものだが、ちゃんちゃらおかしい。
たかだが枝豆の茹で方ひとつとってもすでに十分怪しいではないか。
私の1984年の枝豆は、まさしくこの形だった。
わざわざ自分の意見と天秤にかけるまでもなく、ネットの多数決より自分の記憶を採用して飄々としている70代の感性は実に信頼に足る。
でもさ、枝豆は茹であがったらすぐ冷ました方がいいよ。
味はうまいが色が悪いし、母だって毎回ちゃんとうちわを使って冷ましてたはずだよ。
……という言葉は、もちろん飲み込んで。うまいうまい。